[説話]皆鶴姫[説話]皆鶴姫 日语学习港-日语精品课程|日语考试|中国文学|日本文学|中国书画|日本书画 - 日语港

内容导航

[説話]皆鶴姫
作者: 发表时间:2015-09-05 浏览:1192

[説話]皆鶴姫

 

 

 正一位大納言/藤原成道卿と側室/桂御前の間に、めでたく女の子が産声をあげた。

 皆鶴姫と名付けられた。

 それはそれは、可愛い女の子であった。

 一人娘とあって、溺愛された。

 しかし、幸せな時は、長く続かなかった。

 直ぐに、成道卿が亡くなってしまう。

 男子を儲けていなかった母は、娘を連れて里に戻った。

 

 程なく、兵法学者/鬼一法眼吉岡憲海に見染められる。

 一途な求愛に、徐々に心が魅かれていく。

 想いを受け入れ、桂御前は再婚した。

 皆鶴姫も、鬼一法眼の養女となる。

 養父も、実の娘のように可愛がってくれた。

 皆鶴姫も、よくなついた。

 母娘は、幸せな時を取り戻した。

 保元4(1159)年、源義朝の九男が誕生した。

 元気な男の子は、牛若丸と名付けられた。

 しかし、平治元(1159)年の平治の乱が勃発し、父は謀反人として敗死してしまう。

 母とともに大和国(奈良県)へ逃れるも、兄の頼朝は伊豆へ流され、牛若丸は鞍馬寺に預けられ、"遮那王"と名乗る。

 母/常磐御前が、平清盛に身を任せる引き替えに、命だけは永らえることができたのだった。

 

 昼間は寺で学業に励み、夜が更けると僧正ガ谷に向かい、密かに天狗から剣術や兵法を習ったと云う。

 承安2(1172)年、僧になる事を拒否して鞍馬寺を出奔し、奥州の藤原秀衡を頼って、平泉へ向かう。

 向かう途中、熱田神宮で元服の儀式を自ら行なった。

 名も、義経と改名した。

 秀衡の教えもあり、源氏の再興を目指すと決意する。

 承安4(1174)年、義経は平家の動向を探るべく、密かに平泉から京に舞い戻った。

 京都の堀川に住む鬼一法眼が、先祖伝来の書として、中国の兵法書を秘蔵していることを知る。

 平家打倒を願う義経は、それを習得したいと思いは募る。

 鬼一法眼の門人となり、何度も見せてほしいと懇願するが、見せてもらえない。

 一計を案じ、養女の皆鶴姫に、得意の笛で近づく。

 

 次第に親しくなり、義経に心を寄せるようになった。

 だが、見せてほしいと頼まれるも、父から厳しく門外不出といわれており、お見せできないと固く断わる。

 しかし、牛若丸はあきらめなかった。

 安元元(1175)年、二人の間に帽子丸が生まれる。

 ある日、鬼一法眼が出かけた際、心の想いとともに懇願され心が揺らぎ、兵法書「六韜」「三略」を手渡してしまう。

 その日を境に、義経は会いに来なくなった。

 待ち焦がれている皆鶴姫の耳に、噂話が伝わってきた。

 身を寄せていた四条の正門坊上人が平家に捕えられ、危険を感じた義経は奥州へ逃れたと知らされる。

 皆鶴姫は、驚愕した。

 すぐさま、後を追って旅に出ることを決意する。

 

 従僕らと帽子丸を連れ、準備もそこそこに奥州に向かった。

 “通り過ぎた”との確認を頼りに急ぐも、追いつけない。

 京育ちの姫には、苦難の連続だった。

 京を発って四十余日の後、会津に至る。

 柳原村にさしかかった時、平家の追っ手に捕まってしまう。

 母と引き離され、帽子丸は泣き叫ぶ。

 始末に困った追っ手たちは、沼に投げ入れた。

 従僕らが急いで飛び込み救出するも、溺死してしまった。

 やがて人々は死を憐れみ、「帽子沼」と呼ぶようになった。

 皆鶴姫は、従僕らの必死な助けによって、平家の追っ手から、何とか逃げのびることができた。

 ほっと一息つくものの、義経の行方は、何の手がかりも得ることができなかった。

 途中の橋のたもとで、義経の名前を呼び続けていたという。

 いつしか、呼橋 (よばるばし)と呼ばれるようになった。

 藤倉村で義経が五日前に通り過ぎたと吉報を聞かされる。

 しかし、皆鶴姫の身体は限界を超え、悲鳴をあげていた。

 我が子を失う心労も加わって、病に臥せってしまう。

 数日間、熱にうなされる重い病だった。

 

 村人の手厚い看護を受け、意識は取り戻したものの、季節は冬を迎えており、向かう先は積雪で覆われている。

 健康な男でも、危険な冬山である。

 止むなく、春を迎えることになった。

 待ちに待った春がやってきた。

 しかし病は完治しておらず、出発できる身体ではなかった。

 ふと、近にある難波池を眺めると、自分が水面に映った。

 余りにも、“やつれた容姿”であった。

 嘆き悲しみ、もはや義経には会えないと池に身を投げた。

 312日、皆鶴姫18歳の若さだった。

 従僕らによって、池のほとりに墓が建てられた。

 村人は、“皆鶴山難波寺”を建てて姫の霊を弔った。

 運命は皮肉なもので、義経は近くの磐梯町の大寺にいた。

 報を聞くや急ぎ駆け付け、しばし号泣したという。

 

 後に、悲恋物語を聞いた藩主/松平公は、皆鶴姫の運命を哀れみ、屋根つきの立派な碑を建て「安至姫」と刻んだ。

 いつしか他の人には別離の悲しみを味合わせないように、皆鶴姫が参詣人に良縁を授けると云われるようになった。

 現在でも信じられ、多くの参拝者が訪れる。

 文治4(1188)4月、義経は会津に立寄った。

 兄の頼朝に追われて、奥州/平泉へ向かう途中であった。

 最大の庇護者/藤原秀衡は、前年に病死している。

 これからの運命を、義経は悟っていた。

 初恋の人/皆鶴姫の墓に詣でるためであったと云う。

 

 この時に名菓「五郎兵衛飴」を所望し借用文を遺している。

 逃避行のため、金銭の持ち合わせがなかったからである。