「声がしない。――小さいのがどうかしたんだな」
赤鼻の
「手前は、手前は、……また何か想い出してやがる……」
片田舎の
この四五日糸を紡ぐ音がぱったり途絶えたが、やはり夜更になっても睡らぬのはこの二軒だけだ。だから單四嫂子の家に声がすれば、老拱等のみが聴きつけ、声がしなくとも老拱等のみが聴きつけるのだ。
老拱は叩かれたのが
一方單四嫂子は
「それにまだ一向利き目が見えないのは、どうしたもんだろう。あの
單四嫂子は感じの鈍い女の一人だったから、この「しかし」という字の恐ろしさを知らない。いろんな悪いことが、これがあるために好くなり変ることがある。いろんな好いことがこれがあるためにかえって悪くなり変ることがある。夏の
單四嫂子が夜明けを待つのはこの際他人のような楽なものではなかった。何てまだるっこいことだろう。寶兒の一息はほとんど一年も経つような長さで、現在あたりがハッキリして、天の明るさは灯火を圧倒し、寶兒の小鼻を見ると、開いたり
「おや、どうしたら好かろう。何小仙の処で見てもらおう。それより外に道がない」
彼女は感じの鈍い女ではあるが心の中に決断があった。そこで身を起して
早朝ではあるが何家にはもう四人の病人が来ていた。彼女は四十仙で番号札を買い五番目の順になった。
何小仙は指先で寶兒の脈を執ったが、
「先生、うちの寶兒は何の病いでしょう」
「この子は身体の内部が焦げて塞がっている」
「構いますまいか」
「まず二服ほど飲めばなおる」
「この子は息苦しそうで小鼻が動いていますが」
「それや火が
何小仙は皆まで言わずに目を閉じたので、單四嫂子はその上きくのも
「この最初に書いてある
單四嫂子は処方箋を受取って歩きながら考えた。彼女は感じの鈍い女ではあるが、何家と濟世老店と自分の家は、ちょうど三角点に当っているのを知っていたので、薬を買ってから
老店の番頭もまた爪先を長く伸ばしている人で、悠々と処方箋を眺め悠々と薬を包んだ。單四嫂子は寶兒を抱いて待っていると、寶兒はたちまち小さな手を伸ばして、彼女の髪の毛を
日はまんまると屋根の上に出ていた。單四嫂子は
「單四
藍皮阿五の声によく似ていた。ふりかえってみると、果して藍皮が寝不足の眼を擦りながら後ろから
「單四
「見てもらいましたがね、王九媽、貴女は年をとってるから眼が肥えてる。いっそ貴女のお
「ウン……」
「どうでしょうね、この子は」
「ウン……」
王九媽はいずまいをなおしてじっと眺め、首を二つばかり前に振って、また二つばかり横に振った。
「
と一声言ったまま元のように眼を閉じた。睡ってしまったのだろう。しばらく睡ると、額や鼻先から玉のような汗が一粒々々にじみ出たので、彼女はこわごわさわってみると、
寶兒は息の平穏から無に変じた。單四嫂子の声は泣声から叫びに変じた。この時近処の人が
第一の問題は棺桶である。單四嫂子はまだほかに銀の耳輪と
番頭さんが帰って来た時には、世話人の飯は済んでいた。前にも言った通り七時前に晩餐を食うのが魯鎮の慣わしだからだ。
ちょうどその時單四嫂子は寝台のへりに腰を卸して泣いていた。寶兒は寝台の上に横たわっていた。地上には糸車が静かに立っている。ようやくのことで單四嫂子の涙交りの宣告が終りを告げると、

隣の老拱の歌声はバッタリ
白かね色の曙の光はまただんだん
おお、彼は棺桶を舁いで来たのだ。
半日掛りでようやく棺桶を
しかし單四嫂子は彼女の寶兒に対して実にもう出来るだけのことをし尽して、何の不足もなかった。
きのうは一串の紙銭を焼き、また午前中には四十九巻の大悲呪を焼き、納棺の時にはごく新しい晴れ
この日藍皮阿五は丸一日来なかった。咸亨の番頭さんは單四嫂子のために二人の人夫を雇ってやると、一人が二百と十文大銭で棺桶を舁いで共同墓地へ行って地上に置いた。王九媽はまた煮焚きの手伝いをした。おおよそ手を動かした者と口を動かした者には皆御飯を食べさせた。
太陽が次第に山の端に落ちかからんとする色合いを示すと、飯を食った人達も覚えず家に帰りたい顔色を示した。そして結局皆家に帰った。
單四嫂子はひどく
非常に大きくなった部屋は四面から彼女を囲み、非常に無さ過ぎた品物は四面から彼女を圧迫し、遂には喘ぐことさえ出来なくなった。
寶兒はたしかに死んだのだと思うと、彼女はこの部屋を見るのもいやになり、
だが現在どうであろう。現在のことは実際彼女に取っては何の
しかし感じの鈍い單四嫂子も魂は返されぬものくらいのことは知っているから、この世で寶兒に逢うことは出来ぬものと諦めて、
「寶兒や、わたしの夢に現われておくれ、お前はやっぱりこの土地に残っていてね」
そこで眼をつぶって早く眠って寶兒に会おうとすると、自分の苦しい呼吸がこの静かなガランドウの中を通過するそれがハッキリ聞こえた。
單四嫂子は遂にうつらうつらと夢路に
この時、隣の赤鼻の小唄がちょうど終りを告げた頃で、二人はふらふらよろよろと咸亨酒店を出たが、老拱はもう一度喉を引搾って唱い出した。
「憎くなるほど、可愛いお前、一人でいるのは淋しかろ」
「アハハハハハ」
藍皮阿五は手を伸ばして老拱の肩を叩き、二人は笑ったり押合ったり揉み苦茶になって立去った。
單四嫂子はもう睡ってしまった。老拱等が出て行ったので咸亨酒店は店を閉めた。この時魯鎮は全く静寂の中に落ち、ただこの暗夜が
(一九二〇年六月)