内容导航

蘐園雑話
作者: 发表时间:2010-05-12 浏览:4097

蘐園雑話

一 徂徠毎朝髪月代いたされ、夜は四つ時に寝られ、常に東野・春台など咄しに行れても、四つ時を打てば灯を取寝られたりと、岡井群太夫が咄なりと、大塚五郎兵衛語りき。

一 徠翁、「何々と云ふ字の出処は『漢書』に有りと覚たり」とて、『漢書』を始より終までくられたり。二字のことにて大部の書を地獄さがしせられしこと気情の人なりと、南郭云れし由、灊水より聞。

一 『二辨』『論語徴』はそらにて書れし文なれば、時々覚違ひ有なり。よつて校正を山井善六に頼れたり。善六は徠翁に七日後れて死せし人なり。業終らざりしにより、南郭・春台等是を校正せり。

一 徠翁、何ぞ知れぬことを一字二字にても聞に来れば、幾日も留をき、出処を付ねば帰されざりしとなり。

一 物子生れし処は二番町なり。殊の外平生摂生を第一にいたされ、ハツタケ・マツタケ類の湿地に生する物を食し玉はざりしとなり。酒は杯にても猪口にても、三はいを限りとし、朝は六よりして酷暑中にても単物を着、四つ時より帷子を着、七つ時よりして単物を着、五つ時よりしては袷を着、夜行は堅くいたされざりしとなり。

一 徠翁の親・方庵は、もと憲廟の御側医師にて法眼にまでなられしが、貞固直なる人ゆへ憲廟きつう寵し玉ひしが、同僚にそねむ者ありて色々讒せしゆへ、上総へ謫せられたり。その時、岩和田村の分限・大野庄介が父・庄兵衛が病気を治したるにより、「此方へ滞留いたさるべし」とて、庄兵衛が方に久しく居られ、十二年の後召帰さる。方庵も亦召出さる。其前、徠翁江戸へ出らるヽ時、易にて占れけるに、否の九五「繋于包桑」と云卦を得たり。桑は桑門、僧徒のことなれば、是より増上寺の僧徒へ講釈などいたされしとなり。

一 徠翁赦に逢て上総より帰られしとき、芝の豆腐屋に居れしが、其頃殊の外貧しかりしが、右豆腐屋の主よく世話をやきたりし故、後郡山侯に仕へられしより三人扶持の米を一生右の豆腐屋へ与へられし由、松崎子允語られき。

一 春台は堀大和守殿家来にて、信州飯田の人なり。夫より京都に居られける時、東野より「徂徠へ謁せよ」と勧められしかば、江戸へ来りて徠翁へ始て対面せし時、翁の才を窺ん為に、扇面へ釈迦と老子と並立ち、孔子平伏の皃図を翁に其賛を頼みければ、直に筆を取て、「釈迦釈空、老子談虚、孔子伏笑」と書ければ、太宰、徠翁の才不可窺ことを喜び弟子となれり。

一 竹渓は三浦小五郎とて柳沢保山侯の扈従なりしが、学文あるにより徂徠へたより、夫より南郭などヽ入魂し、保山侯の気に入しが、保山侯没後、嗣侯の気に入らず何れも暇をとれり。夫より竹渓は中野に一類有て暫く居られしが、後、松平伊豆守殿へ仕へ、亜大夫までになりしが、息子不埒ゆへ、番の日も品川より帰らぬと云やうなることなれども、同類をば暇を出されても、竹渓の子ゆへ口を減し置れしに、兎角不埒ゆへ後には暇出しがいかになりしにや。

一 保山侯勢の盛なる頃、細川より毎日の進物の品十両以上の物なるゆへ、竹渓大量の人なれども、あまり夥しき故、墨君徽に問ければ、「あれは其筈なり。六万石のけてある」由申す。松平左近将監殿執政の時、かせ板[梨子煉つめ作る。熊本より献上なり]好物に付、毎日のやうに贈られし。熊本にてかせ板ばかりに三万石のけて有し由。是に思合すれば、かやうの国風にて大諸侯のしるしなり。

一 柳沢保山侯の駒込の別荘に六義園と云額、徂徠に云付かヽせられたり。竹渓に見せられ「よく出来し」由申されければ、竹渓云、「悪筆なるが殊の外宜しき」由申ける。其の後徠翁へ咄せしに、「あれは其筈なり。六義園の三字を唐紙四本に手習せし」由申されき。

一 黒田豊前守[琴鶴丹侯]甚器用の人にて、神道を学び林家の学文もいたされ、又徂徠をも信仰いたさる。此時南郭へ徠翁の云れしは、「丹侯は小松三位重盛に似たり。成仏はせぬ人なり」とて、夫より小松三位と云れし。「兎角成仏と云が大事にて、夫れを一途に思込ねばならぬことなり」と申されき。

一 南郭はもと京都より歌にて柳沢侯にかヽへられしとなり。

一 東涯の方に松岡玄達・北村可昌二人あつまりて徠翁の「天狗説」を出して読之。二人殊に辨駁に及たりしに、東涯は黙してありしゆへ、二人これを問けるに、東涯曰、「人各有所見は論をまたず。此文章の天狗の姿を云のべたること、いかなる人や及べき」とて、色を正ふして云はれしに、二人慙入て大に驚たると云。

一 南郭は謝安に似たる人なり。喜怒色にあらはさず、自らの見を立る人なりと云。

一 春台、黒田大和守殿より廿人扶持出入扶持を賜はる。大和守殿物故後、勝手あしくとて十口減、其後又五口減ぜしかば、春台腹を立、残りの五口共返上致され、一生処士にて終り、息子保定は酒井左衛門尉殿へ仕へたり。是も大夫水野勘解由[水元朗也]が世話なりき。保定不埒にて出奔し、後知れず。

一 徠翁の咄しには、「木下順庵云れしは、大概三年の内、二た時ほどづヽ書物をつめてよめば、大概の学者にはならるヽ」由云はれき。

一 山君彝は、本仁斎門人にて、洛に在し時『訳文筌蹄』を見て、夫より千里独歩して徂徠へ謁せしとかや。

一 金華常に語りしは、「我は学文は嘗てなし、然しながら詩文の上にては塩一升を一斗にも計るなり」と云き。

一 郡山侯の君夫人、頗る学文を好、徠翁を尊信され、屢招かれて論語抔の講釈を所望いたされしに、不得已講釈いたされしが、後度々招かれしかば、「女中方には箇様なること、別して益なきことなり。女中は唯蛤のくちをあきたる如にしてござればよし」と申されしとなり。

一 学者皆覚のよきを願ふことなり。然れども覚のよきのあしきのと云は、初学の内なり。博学になるほど、そう/\覚へては居らるヽものにてはなし。此故事は此書にあるべし、是は類書にあるべしなどヽ、其の穿鑿をする筋の書を知るほどになれば、何にても知れぬことはなしと、南郭云れしと、伯玄云き。

一 白石の詩は猿まはしの三弦のやうなりと、服子云れし由、恵明云き。

一 南郭の詩、平仄宜しからず。平起有韻の句に、初を仄に用ひたる多あり。それを春台の云れたれば、答に、唐にも折々有よしいはれたり。返答に、「初盛中晩は云に及ばず、凡そ華本の詩集渡れば一覧して押見に、一首も其の法にもれたるは不見。もし足下見当らば一二首なりとも見度」由答られたり。其後服子も守られし由。三篇より見当らずと、伯玄咄しき。此こと春台の和書読にもあり。

一 墨子は読にくきものなり。徠翁の考有しを玉山が頭書にして、今の板をおこしたる由、灊水の咄なり。

一 徠翁、平生云れしに、「竹渓は定めて人に叱らるヽこと有べし。我方にて色々叱ることを云人もあるべけれども、たへて申聞すな」と云れし由。

一 徠翁、軍学の師は八人ほどあり。庶流の皆印可までを取れたり。嘗て南郭をも進めて、杢源右衛門へ入門させ、軍学を聞されたり。南郭の咄に、「徠翁は篤実の上に精力の違たる人なり。をれが聞てさへとろき、謙信流などのやうな軍学を、庶流己を空しくして、能聞がきなどせられたり」と感心いたしき。

一 徠翁と軍法の贈答を致したる岡田彦左衛門は、守山侯の家老をつとめしが、直視入道の気に背たる時、一人扶持にて水戸へやられ、其後又家老に復職したりと。尾州侯御不行跡のとき、隠居なさしめたるは、此直視入道と備前侯なり。

一 広沢はもと嵯峨広沢の池の村の人なり。最なじみたる女ありしが、兎角志を立るものは、江戸へ出ねば立難しとて、千里独歩の思あるを、彼女聞て同伴せんと願ども、肯はず。京都を立て二三宿も行と、彼女慕て来れり。七里の渡をわたりて後、山路へかヽるとある林の人気なき処へ行て、彼女を一打に打捨たり。志を立る者は格別の器量なりと、南郭のいはれし。夫故広沢は一生無妻なりと云。南郭、常に春台と広沢を称せられたり。

一 平子和、尤も奇を好める人なり。其家、一妾一僕ありしに、妾の名を月さよと云、僕の名を染之助と云。又極めて猫を好みしに、次第に多くなりて、十八疋に至りしと、宮田子亮咄なり。

一 「白石の師匠・木下順庵、自身は詩作いつこう出来ざれども、常に詩は唐の代の風が宜しき由教られし故に、白石より詩の風体よくなりたり」と南郭語られし由、灊水咄なり。室新助・梁田三郎兵衛、皆白石の門なり。

一 板倉美仲は九右衛門と云し旗本の子なり。兄弟三人あり。兄は佐兵衛とて、武藝十八品の免状を得たり。その外諸藝に達し、一仲節などはくろうとにも無き程にかたりけり。甚不行跡の人にて隠居す。色々悪行あらはれ、終に遠島せらる。美仲は学業に付、徳廟の時三十人扶持給りけるが、後段々不行跡にて、御扶持召はなされけるとなり。三男美叔と云も才子なれども、是も無頼なり。

一 石叔潭、詩会の時、いつも席上にて奇談やまず。皆席上の人申すには、「ちと/\談をやめて詩を案ずべし」と云へば、「是ほど面白きに詩が作らるヽものか」と云き。

一 徠翁は極めて才を愛する人にて、塾に居りたる人の少年の客気にて娼家に遊て出奔したるをも、再呼もどして諫戒せられしこと度々あり。それ故、徠翁を非れる人あれども、実は行儀をりつめたる人なり。行跡の方正なるを、南郭・蘭亭・子允など、口をそろへて同ことに語られし。世の人は是を知らず。放蕩したる如にそしれる人有れども、其後、子廸よりも物子の行跡の方正なる話を度々聞けり。才を愛するあまりに、板倉美仲などをもよく応対ありし。春台嘗て板倉の坐上に坐し、甚倨なりければ、板倉辞して帰れり。其あとにて、「あれは何人にて候や、羽折をきて礼服をもせぬ人をよくあしらはせたまふこと心得られず」と徠翁に申されしよし。是によりて、板倉一生春台を非りし由。又其後、竹渓浪人になりて、甚みぐるしきていにて蘐園え出入せしかば、春台是を甚厭ひて、金谷を以て徠翁に申けるは、「竹渓はよせたまはざるやうにいたさるべし。あのやうなるものが出入いたしなば、後生の輩のてほんにも宜からず」と申せしかば、翁のいはれしには、「あれは別にみどころがあるによつて先さしをくがよし」といはれし由。

一 春台は能の太鼓をよほどよくいたされしよし。

一 庄内公{筑前殿}の臣に稲富又百と云人あり。この名は徠翁にもらひし由。嘗一夜に梅の詩を百首作り翁に見せしかば、「又百首作りてみよ」と云はれしかば、又梅の詩を百首作りて見せければ、徠翁その才を甚感心いたされ、「是より俗称を又百と改むべし」といはれしよし。

一 筑波は松平伯耆守殿藩にある時、始て国より来る使者を、五十間あたり口上書など受取りたるに、夫を口上名前不残記臆して、右の書付を置て出たり。同僚気遣たるに、帰て残らず口上を云聞せたるに、少も不違となり。左伝などはそらにて覚へ居たり。講釈は至て上手にて、浄瑠璃本など読やうなり。席上にて短文など妙にかきたり。一体雄壮にて、劔術はよほどすぐれたり。五十二三の由。

一 金華、詩会の時、詩出来ぬとて雪隠の内にて考へ、暫して出、「よき句が出来たり。名月と云二字を考へたり」と云き。

一 南郭、松前八兵衛殿より熊の皮と鎗とを贈られたり。書を読て厭まれたれば、其皮を冒り、鎗をつとりて、児輩を追かけなどして慰まれし由。風韵格別の人なりと、文仲が咄也。

一 蘭亭が父は、日本橋小田原町の御なや也。豪富にて、芭蕉の門人にして俳諧をよくす。百里と号せり。病革なる時、原芸庵と云人を呼を(び)、辞世の句を作れり。「紙筆を」とてとりよせ、「死んでをひてすヾしき月をみるもよし」と書て、暫して、「先に書かヽりたる時、芸庵のさう/\しかりつるゆへ、かきあやまりたる」とて、又紙をとりて下の字を、「みるぞかし」と書改て、筆を投て終りけるとなん。甚豪気の人なりと云。蘭亭も父の気を継、豪気の人なり。

一 蘭亭、徂徠のことを論ぜしが、「南郭・春台などをうみ出したる程の人ゆへ、其量の大なること、其藻鑒たくましきこと、実に不可及。まことに天授の人なりとぞんずる也。又月の十六日、会ありて、門人帰途にて各、今日疑を問しに、夢のさめたる如くに覚ゆ、とかたり合しこと度々にてありし」と云へり。

一 牛門の会の時、石川黙斎、口をきヽてやかましければ、平野金華云しには、「黙斎不黙」と云ければ、「金華無金」と答たりと、子祥咄。

一 徂徠へ三河より出入の万歳来たるに、「何ぞ書て給れ」と云により、「鳥歌万歳楽」と[唐の楽曲の名]云五字を書てやられたり。其後持参して印を押てもらひしとぞ。

一 徠翁鎗術の師は、築地に住す深井半左衛門と云法蔵院流なり。徠翁、武藝の中、鎗術は一番長ぜりと。嘗自身一つの手を編出して、「如何あるべき」とてつかひて見せければ、師、大驚て申せしは、「別して宜きことなれども、そのやうなる手は吾等家に殊の外秘して伝へず」とて舌をまきし由。後、其印可の内に藝中王と云術を徠翁撰ばれたり。

一 広沢は甚勇猛の人なり。柳沢侯に仕へし時、大内新助と云大かたりの浪人を、柳沢家にて捕へて広沢に吟味のことを託す。後、川越の領地へ囚人をつかはせしが、この新助と云は大力のくせものにて、川越の領地に至り、手錠をねぢきり、あみ乗物をやぶり飛出せしが、大力の武人ゆへ警固の足軽数十人を踏倒し、のがれんとせし時、広沢、人数を退かしめ、組うちにして暫くせり合、のけざまに組伏、擒にし、大足かせを打て手錠をかけ直し、足軽六人とり縄を六すぢにして厳しき獄中に入たりしが、其夜舌をくひきり自害したり。このまへ川越の途中にても度々遁れ出んとせしを、広沢よく守固せられし由。

一 広沢、中野辺に住たる処士に、頼政の禁裏より下されたる太刀の由にて持たるを、道灌末とて持伝へたりしに、松平右京大夫殿聞及ばれ、広沢、彼人に心安ければとて、頼みて所望せられ取寄せられたるに、取次の人の所為なるや、後には一向しれぬことになりて、彼什物持主へ戻らねば、広沢も不審を受しが、殊の外憤りて右京大夫殿を登城の節、刺殺ん工夫をしたり。其事自然と保山侯へ聞へ、止むことを得ず暇を出されたる由。かの処士、貧困ゆへ払ものに出したるを、広沢より見せけるに、太刀も返さず代物もやらざりける故なりと。(本条、四行にわたって『武徳編年集成』の引用の傍記あり。)

一 徂徠の徳廟へ拝謁せられし時、初に雷のことを御聞ありしに、「自分の疝気のをこるやうにて、何と云わけも知がたき」由、申上られければ、大に御笑遊されしとなり。

一 徳廟の時、加納遠江守殿・有馬兵庫頭殿を以て、『六諭衍義』林家へ仰付られ候へども、宜からず。因て徠翁へ点付差出し候やうにと仰により、夫より『六諭衍義』官刻仰付られ、其外諸事御隠密御用、兵庫頭を以て御尋の内、火事の儀御苦労の段仰出されければ、町火消の儀申上られ、二三ヶ月たち仰出さる。大岡越前守殿、いろは組をたつ。又夫までは小身の者、大身の勤を仰付らるれば、其高御加恩にてありし。因てとかく親の勤を子に仰付られける。依て人才少きよし御尋有ければ、其時、役料足し高と云こと申上られしに、二三ヶ月たち仰出さる。是より小身の人の器量も顕はれ、諸家にても人才を取用ること出来たり。是二ヶ条は不易の功なり。この前、憲廟の御代、柳沢侯を以て御隠密御用仰付られしが、赤穂の士、吉良を伐し時、死罪に刑定りたりしが、柳沢侯へ徂徠申上られしには、「君の仇を報ること故、切腹仰付らるべくぞんずる」旨申上られしゆへ、夫より急に評定かはりて、士の格にて切腹に定りたり。

一 憲廟の御代より徂徠召出さるべき御内意ありしが、辞せられたり。後、徳廟御代、召出さるべき御内意ありし時、「存よりこれあり」とて固辞す。其後御目見仰付られ、其翌年正月、徳廟、浜御殿にて御直に何か御尋問是ある旨仰出されしが、その正月病中にて、同十九日下世ゆへ、浜御殿へも出られぬなり。此年は結構召出され、叙爵もいたさる筈の処、没故し惜しきことなりと。右、紀州出の徳廟御素読など申上し大島雲平[後改故心]の咄なりと、恵明本多章蔵語りき。

一 蘭亭失明の後、徠翁へゆきて、「今はかくなりぬれば、いかんともすべからず。針を立習て生産ともすべきや」と申せしに、徠翁しばらく黙してありしが、「いや/\夫はしからず。易を学びて筮者になりなんや、又詩を作りて詩の教をなすべき才なり」。又暫して、「必詩の教をなすべし。聖人、詩書礼楽の教の其一つを得べきなれば、是にまさることやある」と決断ありし故、詩を学て只今は生(底本、この後に「貧」字をすり消した痕があり、その部分一字空白とする。「生産」とすべきところか)も貧からず。又後世にも名も朽まじきと存ずるなり。皆徠翁の目の明を教られたる故なりと、蘭亭語りき。

一 蘭亭十七にて盲たるわけは、もと肴屋の富家の子たるが、常に伽に十六七の小座頭来たるが、利根ものゆへ家内の気に入、往々は世話いたしつかはすべしと両親とも思居たるが、如何のことやら蘭亭と中悪しく、殊の外蘭亭悪まれて、どうぞして出入せぬやうにと工夫をめぐらし、或時富家のこと故、母が針箱に金子三両有たるを、蘭亭のいたづらに、小座頭の道具の内へ入をきたり。なにがな尋られたるに、しれずしかば召仕の道具を改めんと云に成ければ、小座頭は何の心もなければ、速に改さするに、其道具の内より出たり。依て其小座頭を呼て、「其方に於てはかくのごとき悪行は有まじきもの思ひ。往々は世話をもして身のかた付をつけるべしと思ひしに、不届なる悪心なり」とて出入を止められたるが、鬱憤し、井戸え入て死たり。其死せし日より、蘭亭目をやみて盲たり。因て、「是は彼座頭の一念なり」とて、治療のことをすヽむる人有りても、不嘗肯きとなり。此こと深く秘したるが、老年に成りて咄たりと、耆山が咄なり。

一 南郭翁の烟草の歌なりとて、「糸に似て管より出す烟こそ富士や浅間の峯の白雲」と子順云し由。余按ずるに、郭翁は歌道達者の人なること、前にもしるしてあり。是は郭翁の歌にてはあらじ。「こそ」と云詞のうけ字なし。若南郭の歌ならば、愚按を以てせば、「峯の白雲」を「「雲と見らめ」とでも有んか。

一 王維が「科頭にして箕踞す長松下、白眼看它世上人」と云詩を、南郭の、「侘(ママ)の世上の人を看る」と点を付られたるを、春台の、「看侘(ママ)すと点付べき」由云れしに、「看它は俗語にてにらみ見るきみなれば、随分そう付るがよけれども、和語にて他の世上の人を看ると読めば、句も舒やかに、詩を読の法なり」と云れし由。『家語』の註に、「十五異粻」と云ことあるを、其の侭にて『増注』刻せられたるに、冬蔵其外なども、「是は曲礼に五十異粻の誤の由、十五は顛倒なり」と云説ありしが、考甫『家語』の聞書に、「十五とあるは五十の誤ならんなれども、十五より為人とて、幼少の時の食物違ふと云ことあるもしれず。古書残欠すれば、見当らぬこともあるべければ、かやうのことは存して後の疑を残し置が学問なり」と春台の口説にあり。さすれば蘐園の諸子の致し置れしことも、鼻の先の智恵にてそしるは大なる非なりと、文卿よりきく。

一 仁斎は殊の外京都をよく随へられたりと見へて、賎き者までも、「源佐殿」とて「との」付に云たる由。

一 熊沢了介が近江に居られし時、或人、馬士に道を尋しに、是より十里なりと教ゆ。其人、「それはあまり遠し。啌ならん」と云しに、馬士、「こヽは了介様居らるれば、啌などはつかぬ所なり」と云し由。

一 頼寛侯[松平大学頭殿]人の来りて咄の時、徂徠と申せば、色を正して、「その方たち、なぞ徂徠と呼すてにいたしき(て)すむべきか」と怒られ給ひし由。

一 徂徠の先配は、三宅孫兵衛と云旗本の女なり。広沢媒酌してめとれり。故に広沢は通家なれども、徠翁を度々凌ぎしこと有しゆへ、後にはあまりつきあはざりしとなり。徠翁始て柳沢侯へ謁せし時、広沢披露す。此時、書院に作り花の盆ありしが、「此盆にて一首詩を献ぜられよ」と云。作花なぞの詩は古より作例もなき由、徠翁申され辞せられければ、「例なき詩を作るこそ才なり。例あらば誰にても作なり」と申されたるが、其座にて速かに作られしとぞ。後かやうのこと度々なる故、交られぬとなり。

一 春台はむだ咄しするなどヽ云ことはなき人なり。諸侯へ会に行れても、仕度の上に辞帰られたり。酒を飲にも一二杯には過ず。夜は四つ時を打と酒を飲、直に臥せられたり。

一 春台或時、諏訪町にて去る大名のともまはりに溝へつきをとされたるにより、今にてもある蕎麦屋にて足を洗ひ、あとより逐かけ、其歩行をとらへ、段々無礼を咎め、餘程六つかしく云かけしが、諸侯方にて供頭出、姓名など聞、浪人なればとて、きがへの衣服をあたへ、春台のこヾとをとりあげざりしかば、春台しぶ/\にふしやうしたり。

一 徠翁七歳の時、林春斎へ参られ、掛物か聯かを読れたり。春斎甚感心せられし由。初は林家へ入門せられしゆへ、林家の古き入門帳には徂徠の名もあり。

一 平子和は蘐園の社中にて、度々春台を侮慢せしことあり。会読の時、議論するをりに、太宰の論を抑へつけ、確論があつても無理に虚談を交へて、いひ伏せこまらしたり。夫故、平生中悪しく、折節は妄作に書籍の名を云、妄作の語などを云立て云伏。春台あつくなりて其書をせんさくす。二三日も過、「足下の云し語は見へず。なんの処にある」とて問へば、「あれは我腹中の語なり。足下のが実は確論じや」など云てなぶりし由。

一 徠翁は前にも云ごとく、才を愛して無行の人を棄ざること、伊藤一郎{元啓}なぞは無行の人にて、切々亡命して印肉のうりありきしが、道にて徂徠に出あひ、早々町のうらへにげ込しを、若党を追かけさせ、強てつれかへり、手前にをかれしとかや。

一 南郭も、「国初に文人なきに、深草の元政の扶桑隠逸伝は中々よく覚る」と語られき。師徳ありて、其時は生たる如来の如く人信ぜるとなん。此こと熊沢の書にもみへたり。春台の門人・宮田子亮、深艸(ママ)に往て其あとを見しに、元政の手書の和歌をかけ物にしたるあり。「くちね只おり/\人の問くれば心にかヽる峯のかけ橋」

一 「不佞」と云こと、名を書すに只「不佞」と書たるは、司馬穣苴伝にあり。『徂徠集』に是を考に引たるを、叔瑟が『国語』の名の下の「不佞」を引たるとて、灊水憤られしことあり。

一 灊水の祖父は宇佐美杢と云し。其節、鴨根村のやひと云所の分限・石野孫右衛門が家へ盗賊入たりしに、其娘長刀にて追散しける。夫を聞て杢、女房に迎へたりと。其女の髪の内、ひたいに疵あり。其節の疵なりとぞ。此女、髪殊の外長く立て居て、かヽとまで届きしとなり。

一 筑波は市川団十郎と心安し。或時、蘐園社中の書を団十郎、「もらひたし」とてたのみければ、早速しやうちして、皆己が贋書してやりたり。又、瀬川菊次郎にもたのまれしとき、かやうにしてやりたり。二人共に大に喜てあつく謝礼なぞしたり。文卿が咄には、慶子が京へ上る時、春台・南郭が筆に佯り、送序を贈たり。因て慶子、進物を以て春台へ行たれば、「存ぜぬことなり。にくき筑波がしはざなり」と云し由。此送序、殊に見ごとに出来たりとぞ。

一 筑波は勇気の人にて、武術もすぐれし人なり。武蔵野を通る時、盗賊四人出て剥取らんとせしを、一人むね打にして四人の賊をとりひしいだり。後、其処を通りたれば、村の者共出て時宜したりと、伯玄より聞く。

一 同人、駒込にて舌耕したるに、書物はなし。『唐詩選』『滄溟尺牘』を空にて説く。見台の上には浄留利本・艸草紙をのせて説きたり。又、諸侯方へ出講するに、大がい書はいつも『滄溟尺牘』を見台に載せ、空にて講ぜりと、恵明よりきく。

一 灊水、『考文』を助けられし功によつて、古金を県官より賜はりたり。是にて嘉靖板の『十三経』を調へたり。古金七両也。

一 『憲廟実録』は保山侯報恩の為、徂徠に命じて編れしなり。其内、憲廟の犬好并殺生を忌れ給ひしことは、保山殿のすヽめにて致されしやうに書れければ、保山侯、徠翁へ申されけるは、「かやうの儀、我すヽめに非ず。是にては如何」と申されければ、徠翁云、「君の過事をば臣下の受べきことなり」と対られければ、侯、暫く思惟の体にて、「実にさることも有べし」と云給ひし由。右『実録』は、郡山侯に有や否やを知ず。神明門前山城屋茂左衛門と云本屋に二十巻は写したりれども、あと十巻ありて、いまだ写し終ざりし由、灊水へ咄せしが、いかヾして写取たりや不審。一年一巻、都合三十巻也。

一 徠翁、常の咄に、「人に得手不得手あり。予は楷書に短なり」とて、草書ばかり書れたり。『草書韻会』を几上の研の下にをきて、常に学れたる由。

一 「長門の周南の咄なり」とて、北篠敏より聞しが、「徠翁の母、翁を産する夜の夢に、正月の松かざりを夢みたり。よつて父・方庵、生子を双松と名づけられしよし、徠翁に聞けり。又、徠翁は生得雷を好まれたり。それゆへ若き時は自ら蘇雷と号せられたり。此は未至て若きときのことなり。其後徂徠の松のこと、并又ゆらの松、徂来(ママ)の松ならんといはれて徂来(ママ)と改められたりと、此亦徂徠のはなしに聞たり」と云へり。又曰、「其後、周南、唐山より墨を入し匣の内に詩画どもかけるあり。其画人を双松とありしをみれば、双松も和俗の文字とはみへず」と云へり。此こと疑しければ、後に宇子廸にかたりて正しければ、「周南は年来徠翁に随身したれば、かくの如きこともきかれたらん」と云り。「自分はしらぬ」といへり」。

一 白石へ殿中にて、「木へんに目と云字は何と読」と云たれば、答て、「見習ぬ字なり。定めてモクと読むべし」と云れし由。是は『太平記』無礼講かの処に見へたり。

一 富春山人のもとを尋るに、大坂七組の番頭・堀図書之助の孫なり。大坂没落後、乳母なるもの其子を携へ、軍用金を貨殖して、医者になしたり。其子、田中寿軒とて、松平筑後守殿藩に仕へ、今、田中丈右衛門とて其末あり。富春は田中清大夫とて、丈右衛門が弟なり。保山侯、未だ美濃守{ならず}して、川越に在城の時より仕へ、甲斐の国主になられ{郡山は保山死後、享保九年拝領なり}後、郡山へ所替のころ、しさいありて立退たり。夫より一人東奥へ下りたる時、徠翁のせはにて跡の欠所せられしを、不残武具・馬具まで金にして、妻子[唖のよし]とともに東奥へ贈られたり[この時東奥の僧来りしにたのみて]。東奥に十一年ほど居られ、夫より池田に上りて死せしひとなり。其時、厳子陵を慕ひて富春叟と云たり。文は達者にて席上にて書れ、「東海漫遊行」などはそヽ(の)まヽ出来たり。書物は一冊もなく、向より望に任せて講釈せし人なり。皆記臆したりと、山子祥が咄なり。田省吾とはこの人なり。子祥が父を平助と云たり。清大夫、京都へ行し時、委細なる道中記をかしたるに、三日目に平助参りたるに返したり。「昨夜寐られぬまヽにそれを読たるに記臆したり」とて、平助によみてもらひ、つら/\江戸より京都までの本陣・名所・賃銭などよみたるに、一字も違はず。又、逆によむに少も違はず。強記の人なるよし。

一 『南郭初稿』序に、徂徠「吾家の納言」といへるを、荻生少目のことなりと云ふは誤なり。少目は四位なり。納言と云は『懐風藻』に載たる石上乙麻呂を指ていふなり。乙麻呂、本姓を物部にて、官、中納言に至れり。詩の達人なり。故に小野篁・藤原常嗣などヽ一ところに称せり。

一 徂徠、病革なりしとき、病状上聞に達し、徳廟よりウニカフル賜はりたり。倍臣にて公儀より御薬を賜はると云は、先格なきことなり。其死を甚惜まれしと云。是は学風の著述あきたらず、且、徳廟厚く徂来を用ひ給ひ、家をも興すべきゆへ、かく惜まれしとなり。熊耳嘗て語りき。

一 徠翁、疾病なりしとき、嘆息して、「予、下世の後、遺文、世に行れなんに、予を知る人は日本にては東涯一人なるべし」と云れしと、松崎子允語りき。

一 藤東壁、柳沢侯を辞して、江戸白山に小屋を僦住するとき、愛妓をつれ来て同居す。徠翁、其居の辺を過らるヽついで立寄れければ、安藤狼狽して物置の内へ其妓を忍ばせたり。俄のこと故、上着の服を屏風にかけてありしを、気もつかずうろたへて迎へけり。徠翁、暫く物かたりして、婦人の服あるを怪まれける顔色ゆへ、欺きて、「小生、妹あり。宦へせるが宿さがりして此小屋を訪来り、只今、近所へ物詣しける」よし陳じければ、「それはかヽる所へ来られては、さぞ不自由なるべし。我等方へなりとも逗留にこさるべし」と云はれしが、帰宅の後、「其妹へ」とて酒肴餅餌など饋りこされければ、東野いたみ入て赧然たりしとぞ。此妓、殊の外貞固の女にて、東野亡後に外より「めとらん」と云て勧るひとあれども、一向とりあはず、尼になれりと。

一 服仲英、もとは富春叟の門人にて、其後、衣笠玄番と云人に暫く付て修行す。仲英の集を『蹈海集』と号せしこと、灊水などの意には、「魯仲連伝の字にてよからざる字面なり」と、たび/\云れたれども、聞かざる由。後、文仲に聞たれば、「仲英が親はもと神主か公家の雑掌にてありしが、訴訟のことにて御搆にあひたり。仲英、出府して御詫申し、若聞うけなくば蹈海而死とて、江戸へ出て、とう/\御詫叶て、父、赦に逢れたり。是に因て此号あり」となり。

一 徠翁柳沢侯に仕へ、保山殿没後、加増ありて五百石になりたり。奉公もなく町宅せられ、先茅場町に住し、夫より牛込の外に移り、又、赤城の近所、神楽坂に居られ、又、市ヶ谷大住町の中の町に住居す。此時、青山より出火、五段より巣鴨まで焼失の時、回禄に逢れたり。

一 徠翁、胴の長き人にて、小袖の丈は四尺を着られたれども、袴は短きよし。

一 春台は、西台侯よりの書簡に字か号を書れしより、無礼なりとて往ざりけり。

一 春台へ金華より書牘うは書に、「金華山人」と書てやりたり。春台、兄弟の中にも礼あるべきよし云れければ、成程とがてんし、又、文通に「春台老賢金華」とかきて、脇へかたかなにて、「コレデハ」と書てやりたる由。

一 南郭詩会の時、「清風不待秋」と云題を仲英出せしとき、南郭も仲英・文仲など出来しに、士寧ばかり出来ず。其後、文仲、右の詩を士寧へ相談のとき、士寧云れしは、「句題は作らぬことなり。畢竟、詩は長いことを短く云取が手柄なるを、五字にて意味の有を、十字に云のばせば、自ら冗句ありて詩情に背たることなり。唐人にも句題は少く、于鱗などもたま/\句題を作るは詩の衰へなり」と示されし由。

一 或国君、当世の名人を論ず。今日本にて学術は荻生惣右衛門・伊藤源蔵。暦算は中根丈右衛門[号白山]・久留島喜内[内藤備後守殿臣なりと云]。筆道は細井次郎大夫。官位装束は壷井安左衛門[名は義和]。神道は賀茂の梨木氏。俳諧は松木次郎左衛門。くだりて戯台狂言は市川団十郎。

一 熊本藩の藪久左衛門[号震庵]は肥後にてはよほどよき学問なり。仁斎も果られ、最早徂徠さへ言伏れば、世にこはきものなしと思ひて、書牘など贈り、江戸へ出て紹介を以て徠翁へ来られしに、徂徠、座鋪の掃除させて居られしが、「是へ御通り有べし」とて通られたり。震庵、「それには及ばず」と申されければ、「其許の為に掃除いたすにてなし」とて、其後掃除を止め、初見の挨拶に及び、「さて其許には何役を御勤なさる」と聞れしとき、「物頭役勤め候」と答。徂徠云「肥後は水国なれば、御役義にては定て水軍の上も御功者に有べきなれば、追々御咄をも承はるべき」と云れたれば、「いまだ学び申さず」と答へしに、徂徠、「それは御頼母しく無之儀、然れば御役難勤と申ものなり。御役儀も勤らぬ内、学文などは然るべからず」と初よりきめつけられ、震庵もせり付心にて行れしが、此一言にて迚も太刀打は不可叶と、甚心伏せり。其後は何にても徂徠の旨を得て事をさばきしより、殊の外肥後の風俗よくなりたりと、右、息子・藪茂二郎咄なりと、鍋島の松枝善右衛門よりきく。

一 蘐園に、仇英が桃李園の画と文徴明が讃の掛物の来りしを、徠翁見らるヽに、仇氏が画は正真にして、文徴明は偽書なり。「価の高下はいかヾ」と尋らるヽに、「文徴明ゆへ高直なり」と云。「しからば徴明をば返し、仇氏が画ばかり取るべし」とて、甚廉に調られたり。後、西台侯讃せられて、蘐園に今有。優游舘にも小林海鴎此図を取たり。

一 蘐園に犬吠の達磨と云画あり。兆殿司の筆なり。或時、居間にかけて置れしに、庭さきへ犬、折節参り、此画を望みて大に吠しとかや。是よりかく申なりと。画は達磨とは申せども、実は臨済の像を画きしなりとぞ。

一 前段に云、仲英は親の冤を雪いで後、修行して居たるころ、終に夜着をきず。厳寒の時も素足蒲団一つにて臥たり。此時は木綿夜具など買はれざることにてもなかりし故に、不審したれば、「親、右の通り冤に逢たるゆへ、一生ふとん一つにて極寒をも過たり。それを思ふゆへに、蒲団ばかりを着る」とて、赤羽へ行ても一生夜着をばきざりし由。感ずべきことなり。

一 滝長愷は屈彊の人なり。彫刻某の印譜を得たるに、華人の序、甚読がたく、長愷より始め、南郭・仲英などへもみせしが、読めぬ由にて置たりし。二度目に仲英、韻をもたして詩の長篇にすればよくよめたり。夫を弥八に見せたれば、負をしみにて、「詩にすれば随分よめる」と云し由。

一 林周助は林義卿とて、周南門人なりしが、徠翁と周南の文通を、己と徂徠との如くして印行したり。夫を南郭と春台と松平摂津守殿いまだ民部少輔とて参政御勤ありしとき、願書を以て廃板したりし由。「此願書、恵明持たり」と、世龍云き。周助娘は、松平周防守殿へ妾に抱られ甚寵あり。依之、周助惣領を用人・宮城治郎左衛門が養子になし、侯執政の時、専ら勢要の人なり。宗徳時々あひき。

一 烏山侯は甚詩を速に作られし。文仲彼是八人が召れたる時、席上の題の外、八人へ贈詩七律八首、其上に八人の和韻をいたされたるよし。甚あらき詩なり。壷山侯[本多弾正]は、よく考たる人のよし。皆、蘭亭門下なり。烏山侯は鶴楼の門人ゆへ、師弟のあしらひにてはなく、食客のあしらひの由、文仲咄き。

一 鞍岡文次郎、名は元昌、号蘇山、長崎の人なり。総髪にて容皃甚異なり。華音よくす。或は長崎の訳者の子にて、華人のをとし種なりと云。十九にして江戸へ来り、柳沢侯へ徠翁推挙にて仕へたり。其時、歳は廿六なりと申けれども、実は十九なり。初、長崎より町家の手紙をもらひ、江戸の豪家の町人へむけて参りけれども、この町家にて、手紙は相違なけれども、容皃を見て怪しく思ひ、「一宿をもいたさせ申ことならず、又明日なりとも御出候へ」と云しによりて、よんどころなく馬喰町に宿をかりて居たり。幾日もなにもせずにいたりしが、亭主の云には、「何ぞ覚へて居られ候ことありや」と申けれど、「何も手に覚へたることはなけれども、只手を少し書」と申せしゆへ、「然らば書てみせたまへ」とてかヽせたり。亭主殊の外悦び、夫より手をかヽせて業とさせしとなり。其内、徠翁門下に遊びて居るを徠翁へはなしければ、「手前屋敷なりとも出られよ」とて、保山侯へ進られしとなり。徂徠墓石の正面は、此蘇山の書なりと。

一 柳沢侯の藩に、牧田文蔵と云人あり。天文算学を能す。灊水、三島町に居られしとき、南郭盛なりしが、「あの方へ行ず灊水へ入門したりし」とて、秘蔵せられたり。

一 竹渓、灊水の句読ある書に句読せられたるを、春台「愚なり」と笑れたり。竹渓きヽて、「其句読の上に句読をするばかりが見こみなり」と云しよし。

一 徂徠の墓石は伊豆の小松原と云石にて、蘭亭の見立なる由。

一 徂徠の真跡の政談を、文卿借得て写之。誠に感心すべきものなり。是は立花宗立が茶屋四郎二郎へ廿一両にて世話せしを、京都にて百両の質に取んと云しを、四郎二郎やらずとなり。四郎二郎が清水の勘定奉行・池田作左衛門借得たるを文卿借たり。灊水、嘗て此書を見られたれども、価貴ゆへ買れざりきとの咄なり。

一 学則の内、竹渓へ与へられるヽ書は、実は藝州の屈景山へ答書なるを、景山より「是は入られ下されまじき」と頼みに付、竹渓へ「貴様の名にして入るべし」とあり。いかさまにもと、竹渓の名にせられたり。竹渓は理学はせぬ人なり。

一 「于子新は学術の奇僻なるのみならず、言行ともに詭激なりし」と、子新のもとへ度々行きし人の語りき。然ども是非とも一家の言を立べき志にてありし故、甚精学は及がたきと云こと承りたりき。今の平安の学士は子新の奇僻に浮華を配剤したると存ずるなり。蜷川文蔵など、以の外奇を好める由、承はりたり。もつとも学術は又、中々人にすぐれたりとは存ずるなり。

一 『国策』は人にすみがたき由を云書なり。春台の方に会ありし。これは戦国游説の士、いヽまわりたることなれば、とかく口上にて云てみたらんには、すむこともあるべきとて、各本文の通りを、今日の口上にて云てみたる由。それゆへすむ所すまぬ所はきとわかれたると、君修かたれり。

一 金華は、をどけたる人なり。何れもの咄に、呂不韋伝の「嫪毐{キウタイ}」ではない「ロウアイ」だと云争あり。金華、側より、「己はキウドクと覚たり」と。「毐」の字、「毒」の字に似たる故なり。

一 長松寺、徂徠の次嬪の墓は、馬鬣封のかたなりとぞ。

一 春台が校せられたる書を閲せしに、片かなの点一画、只わづかに誤りたるをもこと/\くすりけし、もとより点のあしきは、のこらず改て、句豆(ママ)正しくして、字義のまぎらはしきをば皆標注し、又、注などの義の誤を正し、評をも標題にして、批点もあり。五色のすみにて右の通なるゆへ、五色にさいしきわけたる小紋の絵をみるに似たり。誠に珍しきことなり。古より如此精密に書をみたることは類ひ希なり。又、赤馬関石の研に五つならびたるを持て、五色の墨も自制(ママ)して用ひられしと。享保十七壬子の歳に、徠翁の遺文を南郭校合にて一二巻づヽ分て徠翁の門人に浄写ありしとき、春台、「峡中紀行」をうけとりて書れし由。一字一画の書き損じなかりしとぞ。

一 南郭は十四のとき元禄丙子東都に至り、十七のとき美濃守殿に仕へられしなり。『大東世語』も其比、専ら日本の書を読たるを書出しをきたるを、後に刪定して書なをしたりき。「日本の古、北条氏の盛んなりし時の詞つき、晋のとき門地を貴びたるに似たり。それをかきたる故、『史』『漢』などの文字とは立ばたがいたるなり」と語りき。老て京都に遊び、帰て後、居間のをし板の壁の中央に、箕尾の滝を画き、左の方に薩た嶺より海を眺むの景色をゑがき、『四稿』にのする七言古詩もかたはらに書てあり。絵は全く雪舟流なり。常にかたりて、「日本の画は古法眼雪舟を最上とすべし。異国より来れるとて人の賞する『八種画譜』は日本人の所謂町絵にて、みるにたらず。画論は『津逮秘書』中にあるにてをすべし」と論ぜられき。又、神戸侯の別業・うきす屋敷にて、庭をめぐりて、「数十年歌をよまざるに、ふとよみたり」とて語られし。「静かなる池の心を水鳥のうきすの浪のたつとしもなし」

一 徠翁、竹渓に語られしは、「『鈐録』とは号したれども、冉牛が兵と云ことあるを以て、『冉矛』と題せんとも思」と云れし由、灊水よりきく。

一 徠翁、人に接するに、士人に非れば堅く同間へは入れざれき。故に蘭亭なぞも屢出入しかど、御なやの子なれば、一間づヽへだてヽ教授いたされ、見舞なぞに出しときは、玄関にて逢てかへされし。後、明を失してよりは、士人同様にあしらはれしとなり。書斎中に入しものは、社中にて、竹渓・東壁・南郭ばかりなりと。

一 憲廟は御威勢ある御人にて、威福のありし御方なり。「威・福の二つは、人君所以執御下也」と徂徠云れし。物観など登城の度々、挟箱に一つ宛拝領物有し由なり。

一 憲廟の時柳沢侯への贈もの多き中に、最華美なるは熊本侯にて、いつも第一番なりけり。或日、大鯛の一分も違はぬを五百枚進物とせられし由。

一 徳廟の時、酒匂川の水溢れければ、川崎の田中久吾[今の兵庫が祖父]、其時は勢を得、代官の御あしらひにて、大岡越前守殿のかヽりなり。此男、右の水を治めて酒匂川の川上に禹王の碑を立つ。此碑文を久吾書て、越前守殿へ出す。則ち上聞に達し、「惣右エ(ママ)門へ相談すべき」旨、仰出さる。越前守殿より徂徠へ奉書来り、右の趣仰渡され、中一日ありて、右の碑文大方書直す程にして、差上られたり。其時、灊水供にて越前守殿屋敷へ行れしとなり。其内、「伊勢判官為兼、奉勅命治水、立神禹廟於鴨川」と云ことあり。「何より御出候や」と南郭とはれければ、「前かど『雍州志』[並河五一著]の中にて見たり」といはれき。此碑をば竹渓かきたり。久吾方より徠翁へかきてを頼み来ければ、竹渓をなぐさみながらやられたり。

一 徳廟の時、黒田豊前守殿を以、政事の儀認め差出すべき旨仰出さるヽに付、『太平策』を書て上られしが、加納遠江守・有馬兵庫頭、御側にて端ぎヽの由。『太平策』も両人の手より出しよし。

一 『度量考』を印行せらるヽ時、「算者へ校合たのまるべし」と竹渓云はれたれば、徠翁、「少々違ありても不苦」といはれたれども、無理にすヽめられたるにより、中根元珪へ頼れたり。二ヶ所たがひたる由にて直さる。其後、竹渓へ元珪の咄しに、「『度量考』よけれども、上総に又、个様々々の算者ありて妙なり」と咄のとき、竹渓、「夫は大方馬鹿なるべし」といはれしよし。此語、殊の外面白きことなり、とて灊水の咄なりき。

一 甲州宿の人、徠翁、甲州道中いたされしとき、書をもらひたる由。何とか云二句の書を持たり。此わき書を灊水に見せたるに、「書は真蹟なれども、印と款識は疑しき」由言れたり。熊耳の考へには、落款は甲州道にて此二句を得られたと云ことなるべし。印なくてはいかヾと、有合を押たらんと、文仲いひき。

一 徠翁、平生書を読せられしに、几案を用ひざりしとなり。唯腹ばいになりて書を読れしが、人に申されしも、「机案を用れば、頗厭倦を生ずるものなれば、用ひぬがよし」と申されたり。

一 平義質、或時、徳夫に逢ひ、徳夫云、「道は行れぬ世の中になつたり」と云しが、竹渓別れて人に告て、「春台は大分このせつはひもじひめに逢とみへる」と云て笑れたり。

一 竹渓は徠翁の著述ものを多く写せり。浪人のころ筆耕料をとつて書たり。蘐園に今存せる『二辨』『学庸解』『鈐録』『論語徴』など、皆竹渓の書なり。詩文は大分、竹渓に書せしことありしとぞ。『鈐録』は十五日の間に全部皆写をはりしとなり。徠翁常に申さるヽには、「竹渓は至て頓筆にて、謄写速に、その上、脱落・誤字等もせぬ」とて、多竹渓にかヽせられしが、『鈐録』には驚かれしとなり。

一 竹渓、吉田侯へ仕へて広間の役を勤めをりしが、郡山侯の使者参りしとき、旧故をだん/\語りし上、広間にて大音声に申すには、「そちらの屋敷は馬鹿なやしきじやと思て辞したが、こちの屋敷もやはりばかなやしきじや」と申せしとかや。

一 竹渓、吉田侯にて亜大夫になりたるとき、春台にあひたり。徳夫言しには、「足下、このごろ侯に用ひらるヽと承りたり。定めて経済の了簡も出べし。目出度」由云しに、竹渓、行過ながら、「大馬鹿ものなり。只、口を餬するまでなり。何ぞ経済なんどせんとて仕へんや」とて大きにそしられし由。

一 竹渓は豪邁の人なり。青山辺の野へ、友人とつれたち行しが、道にて乱暴ものにであひ、刀を抜、通る人にきづをつけたり。往来の者、友人も皆避たりしが、竹渓一人、はなうた歌ひながら近より、切つくる刀を扇一本にてうけ流し、刀を打をとして摶へたりと、灊水よりきく。

一 南郭の詩に、「白鳳宮」と云ふは、近江の白鳥[日本武尊白鳥に化たると云]明神を祭る社のことなり。

一 南郭、老年、文字をやめられしとき、縁山の竜泉[蒼溟上人]、硯の銘好まれしに、「左候はヾ、倭文を書たることなければ、和文を進ずべき」由にて、檜垣の瓦硯の文を書れし由。此真蹟、金地院と竜泉とに二枚あり。藍川通益順双鈎すと云。此服子の手跡は順閬が方に所持す。

一 仲英はせうたんな人なり。鳥羽侯藩に青柳清大夫と云人あり。学文も左迄なけれども、詩を好み、すこし作り覚へて詩会へも出たるが、字を付てもらひ度由願ひたれば、「子厚と付よ」と云たり。もと不学ゆへ柳々州なるをしらで居たるを、同門の人、「柳子厚」「柳先生」など云てなぶりたり。後に外にて聞たれば、大きにこまり、字をかへて貰しとなり。

一 河保寿は物いまひの人なり。是も仲英に、「目出度字を」と乞たれば、『詩経』の「桃之夭夭」と云字を以て、「子夭とせよ」と云たるが、実不□に読む心なり。

一 郡山侯の大夫に、藪田五郎右衛門{重守}と云人、或時、徠翁と面談の時、「とかく炭部屋と云しかたが大事なり」と云れし。「炭部屋のしかたとは、いかなるしかたなり」と五郎右衛門尋ければ、「別の義にも候はねど、一たい人才を用るには、上に目立候人ばかりを用ては役にたヽぬものなり。それと同ことにて、炭もやはり下つみによくしめり候の有りても、とかく上かはのかはきすきたるのばかり用申すものなり。それゆへかくは申なり」と云れし由。

一 本艸に、「五十ヶ条の口伝」「十五ヶ条の秘事」と云ことあり。京都にては銀一枚づヽならでは口伝をゆるさず。其内に「莫令四目之人視」と云こと有て、錬丹法かなにかを見せるなと云てあり。是を松岡玄達の伝にては、懐孕之婦人のことを四目と云、又、何がしとか云人の伝には、方相氏は逐鬼形にて、葬礼などにも先だちするなど云ことあれば見せぬと云ことの由。徠翁きかれて大に笑はれ、「右やうのこと、何の拠もなき猥説なり。四目とは我与人のことなり。錬丹の法を人に見せるなと云こと」の由云れて、今は此説になりたる由、石塚元丈はなしき。

一 『南郭文集』の内、二三ヶ所転倒ある由、滝長愷より申越せしことありき。

一 『答問書』の問をかけし人は、酒井左衛門尉殿大夫、水野弥兵衛・疋田族と云両人なり。其俗書牘の問書、蘐園に存すと云こと聞り。

一 蘐園にある『説苑』古本の外題は、東壁の書なる由。

一 『遺契』は大塩与右衛門が本より校合したり。其後、備前の湯浅新兵衛{常山}点を付たり。灊水へ見せたれども、気に入らぬとなり。

一 田良暢蘭陵は、田中丈右衛門子にて、清大夫の猶子なり。入江幸八はもと筑後侯の歩士の由。

一 水足博泉は、熊本にて父・屏山、密夫に殺されしとき、博泉、父の仇を伐とて、熊本侯へねがひ、侯よりも許され、仇をさがし備前まで出しが、道にて病気つき、狂気し、備前にて病死したり。此時、廿三なりとぞ。

一 松井助七、字・子潤は、井伊彦根侯世臣なり。彦根にて、徠学を弘めしは、子潤・武子忠、此両人なり。学才頗るありし人なりしが、彦根にて遠松源五郎と云もの同藩にて屋敷も隣なりしが、或時、憤ること有しとみへ、源五郎を召に遣はして召寄せ、座定ると斉く、子潤、刀を抜き源五郎が右の手をきり落す。源五郎もさる者ゆへ、左の手にて刀をぬき、すかさず子潤の眉間へ切つけたり。その向に夏目外記といふ大夫あり。年十六。この騒動を聞より、早速かけつけて、門をうたせて近辺より来る人をいれずして、門をたヽく者あれば、外記、呼はつて云、「喧嘩にて候程に、外記、是にて勝負を見届候。必をたち入あるな」と云て、人を入ずに置、源五郎を其子にわたし、子細を糺して、侯へ届を出させしが、其さばき、少年にはすぐれしことなりしとて、彦根に誉れありしとなり。此外記は、学問よほど有る人にて、徠翁信仰いたせし人なり。

一 池永道雲の子は、宗右衛門と云。宗右衛門は黄金家にて、芝口二丁目のテレメンテイコと云薬を売、大坂屋七兵衛のかぶを買て今あり。

一 「長於詩書[孫奭「孟子題辞」]」、「其長於」云々の「長」は「長なり」と読むべし。其得手たる所を云。不得手を「短」と云へば、それへ対して「長なり」と読べし。「長ず」と上声のやうによむは宜しからずと、灊水の云れき。

一 物叔達、かつて奴隷の罪あるを逐れしに、甚憤りて、しかりて逐出せしかば、方庵これを聞て徠翁に戒められしには、「逐ば我臣に非ず。何ぞこれを叱するに及ばんや。叱するならば逐はぬがよかるべし」といはれし由。徠翁の咄なりとぞ。

一 徂徠女舅、備前新太郎少将{光政}殿の後宮に仕へて居られしが、後には仕をやめて娘[徠翁次嬪]方に寓居せられしに、徠翁、これに事ふること母に事ふる如く、朝昼夕、三度づヽ、外間さへあれば、その居間まで参られ、きげんをきかれしゆへ、餘り厚くとりあつかはれ、こまられたる位の由、大寧の咄なり。

一 徠翁の祖母は、北条氏政の侍大将・平山参河守女なり。平生云はれしには、「家に畜生はかはぬがよし。もしかふならば、犬一疋かふべし。又、下部を侍にとりたて使ふことなかれ」と云れしと、徠翁咄されし由、蘭亭咄なりと。

一 肥後の学校は、二の丸の中に建させられ、玉山、これを司れり。玉山はことに豪飲にて、磊落の人なれども、三年の喪をつとめたるなどは、人の及びがたきことなり。

一 大和を日本と云しは、唐の則天の付られしよし、文仲云。

一 室直清は、もと加賀の人なるを、白石の推轂にて県官へ召出されたり。

一 予嘗て、柳沢侯に存せる「徂来親類書」と云ものを見たり。尤翁真蹟に疑べきところもなきものなり。翁高祖父に、「参州荻生城主、長亨二年、彼城明渡、属于北畠大納言郷房卿、四位昇進、仍打目といへり」とあり。打目疑しければ、何と読べきと社中の人に尋しに、打目は少目のあやまりなるよし。

一 徠翁、牛込の火事の時、人数六七人召連行しことあり。十人火消、殊の外悦び、使者にて謝しけるとなり。指麾に目ありと見へたり。

一 安澹泊、水戸公の命を奉じて、『列祖成績』を著す。其序、守山侯の文なり[南郭代りて作れりと咄なり]。『列祖成績』は、神祖一代の実録なり。文は叙事を第一とす。それゆへ文は宜からず。間々に議論あり。此について一つの佳話あり。本多中務大輔殿執政たりしとき、水戸の邸にいたり玉ひ、此書を拝借あらんことを有司にたのまれけれども、「中々外へは出すまじき由、預め定められたることなれば、決して此事は申出すこともならず」と申す。其翌日、又本多侯、水戸の邸にいたり御たのみあれども、取次の人も曾てとりあはず。又其翌日至り、中山備前守殿に相見ありて、「たとひ思召に忤ふとも、此事達て願ひ奉る」ときびしくいはれしにより、水戸公聞玉ひ、「今、執政の大臣、日本に重き人なり。日々事多き中に来りて望むこと黙しがたし。只五日の間かすべきなり」とて、御借あり。本多侯、物よく書く人を十人撰みて、五日の間に写させられたる由。今は世にもれて、たま/\には外にもあり。千五百張もあり。

一 「無題と云は、劉禹錫が剏めたるなり。是は古意のこヽろに作るべし」と、灊水など云はれし。『唐詩選』にある「古意」は、女の男の遠游を思ふ心、又、明人の「無題」の詩は、とかく男が女を思ふやうに作てあるなり。其後、仲山の云には、「古意は古詩の意と云こヽろにて、古詩と指すは十九首のことにて、十九首の意と云ことなり。十九首も、皆女より男を思ふこヽろなり。南郭の説なり」と咄たり。然らば男の女を思ふ意にてはなきか。

一 『学則』に、「黄備」と書れし「黄」の字、灊水などもとくと知れぬ由云れたるが、『三才図彙』、『艸穀本草』を引きて、「黄薇」と書きたり。往古、吉備の中山より、ワラビを出したり。黄は薇の本色と云り。文仲が詩にある由、文卿の咄なりと、叔飛つたふ。又、和学者云には、古歌に「真金ふくきびの中山」とつヾけたれば、「真金ふく」「き」とかけて、此の「き」は黄の字にて、「黄備」と書たるべしと云たる由、巵兮の咄なり。

一 白石は生涯弟子をとらず。烏山侯[大久保伊豆守]、弟子たらんこと頼れければ、鶴楼へ譲られたり。『鶴楼遺篇』は烏山侯の世話にて印行せし由。序は清の鄭任鑰・室直清なりと、文仲咄なり。鄭任鑰は、『白石詩稿』の序を書たる人なり。

一 白石、さる豪富の町家へ行しとき、主人云しには、「今日はよきおりにて、只今徂徠も参りもうす」と云しかば、白石早々帰られたり。あとにて、「徂来へ出会しては、中々むつかしきゆへ避たり」と云れし由、文卿咄なり。

一 町家にて惜むべきものは、市野屋三左衛門[春台門人。『周易反正』校合の人]、井上源蔵[同人門人]、万屋作兵衛[俗語をよく解。『水滸伝』へ仮字を付し由。灊水へも謁す]の三人なる由、灊水はなしなり。

一 芝の伊勢屋嘉右衛門と云豪家は、郡山侯の仕送をせる人なり。其弟の清左衛門は倉前の米屋にて、是も豪家なり。学文す。兄、郡山侯より徠翁勉書并に墨跡に猗蘭侯の跋あるを借用して、清左衛門へかしたるを、春海見せたり。『憲廟実録』も三十巻とやら有を借よせしと咄なり。

一 『徂徠集』『四家雋』の初一二冊は、大久保四丁目の御家人・洲中彦五郎書しなり。此男は学文はなけれども、手跡宜により竹渓など世話いたされしとなり。

一 岡島援之は長崎の人なるが、華言をよくするにより、其節は柳沢侯にて華言はやり、唐僧など応対多きゆへ、保山殿抱へられし由。徠翁華音の師なり。援之は長崎にては放蕩の人なり。華人の海鼠を海参とて尊むるを以て、交易せんとて金をとり、海参はやらず、夫より江戸へ来り、其後、妻を自分が中人して外へ嫁せしめたり。此援之が子の由にて書生ありしを、市橋伊豆守殿抱へられたり。『絶句解』の証とやら云ものを書たるを、灊水に見せたるを、「此人は人と為り心得ず」と云れしが、言に不違、其後市橋の奥女中と密通して出奔したり。此事、熊耳甚感ぜられし由。

一 金華、徠翁を訪れしとき、適その不在にあふ。一聯をとヾめて去る。聯「夙起錬丹紫気在于窓前 暮帰炊玉青鳥下于簷下」金華一時の戯作なりと、灊水の咄なり。

一 徠翁、外より書をかりに来れば其侭かされし由。若出しやう遅ければ、殊の外怒られたり。「わが書を見たきも、人の見たきも同じことなり」と云れし由。

一 柳沢侯勢の盛なるとき、そのころ名ある剣術師来り、使者の間に居て徂来を見、取次の者に尋ねしは、「只今肩きぬに丸に矢違を付し人、此前を過りしが、何と申す人ぞ」と尋たり。「それは大方、荻生惣右衛門ならん」と云ける。剣術師云、「不思儀の人なり。先刻より二度ほど見受候に、心に少しもすきのなき人なり。後よりもうかつには打こまれぬ人なり」と云し由。

一 板倉美仲は別に召出されたる人なり。才出達上聞、藪主計頭を以て御試仰付られしが、美仲より、「韻字の内、いづれの字にても五字づヽ御書出し候はヾ、律を作り御目にかけ(く)べき」旨、申たり。主計頭、学問なき人ゆへ、何の字の差別なく書付たるを、直に律に作り、幾首も作られしを、入上覧、それより召出されたる由、灊水より聞く。

一 竹渓終焉の時、自分の艸稿をみな出して、片紙隻字ものこさず焼すてたり。それゆへ著述は何ものこさぬとぞ。

一 竹渓、徠翁没後より、忌日には急度、徠翁の神主へ謁して手製の菓子などをもつて備へし由。灊水の咄なり。

一 竹渓は活気の人なり。徠翁の虫干のとき、いつも竹渓、手伝にきたり。晒書の時、裸体で昼寐をして、庭先に居たりしが、徠翁窃に見て起されて申さるヽは、「地気をうけては能あるまい」と云声に驚てとび起、「腹の晒書の世話まで又したり」などヽ云し由。晒書のとき、笈中に折節ない書籍の名が蓋にしるしてあるとて、ない書籍を記してをくは益なきことなりとて、けしてしまいしかば、徠翁是を見て、「これは迷惑なこと。折節他へ借して置しなり。必ないのではない」とて笑はれしこと有とぞ。

一 錦里の門人たち、才学勝れし衆中、集りしとき、人々の志を聞れしに、白石と榊原玄甫と、両人すヽみ出、「日本有用の学文を仕度ぞんずる」と答しに、白石は『古史通』『藩翰譜』『読史餘論』『東雅』『軍器考』等、皆日本有用の書なり。榊原は法律の学問骨折しに、紀州は法律のはやりし国ゆへ、紀州に召出されし由。是につき、有徳廟も紀州にて法律のこと具に御存知あそばされし故、江戸にて御即位の後も、御吟味有之、徠翁・叔達も専ら法律家の言、吟味これある由。有徳廟、三奉行に命じ、『県断餘』を御ゑらばせあそばされしよし。

一 白石『折たく柴』と云著述、書二冊あり。是は後鳥羽帝の御歌「思ひ出る折たく柴の夕けむりくせぶもうれしわすれがたみに」と申御製にて名づけられし由。これは文廟へ申上られし由を、詳に出たる故、外へかたく出さヾる由。

一 徠翁一生一首の和歌とて、「わが門の五もと柳枝たれて長き日あかぬ鶯のなく」。又、其後うけたまはりしに、少しく異同あり。「わがやどの五もと柳糸たれて長の日飽ぬ鶯ぞなく」

一 徠翁の方に人来りて、「庫一つに盈書籍をうる者の候。購たまひなんや」と問。価百六十金なりと云。徠翁、「予求むべし」とて、購はれたり。家器・武具をばのこし、大かたはたヽみをを(「を」衍字)もあぐるほどにして、金の不足を払物にして価をやられたり。其中に種々の書ありたる由。詳に子廸よりきく。子廸は物子の方に、十七八の比居たる由。尤其購れたるは、徠翁卅九か四十歳の由、子廸、物がたりなり。それ故、徠翁、殊に書に冨、其中に李王が集もありて、古文辞を修することそれよりなりと聞たり。

一 山田大助は、十三の時無点ものなど読たりとて、二百石下されけるとなり。

一 徠翁の歌に、「もろこしの文のかず/\みれど/\いづらわが世のすがたならざる」「あめに問ん便りをかもな孔子の道をたが世の為に伝へをきぬる」

一 『随筆』『訳文筌蹄』は見識未改の時の板なり。改りて後、『学則』『答問書』印行す。是皆、徠翁存生の時の板なり。『二辨』『論語徴』は南郭・春台・竹渓等の門人校正して印行す。『学庸解』よりして子廸の校正なり。

一 五史の点は柳沢侯の臣・志村三左衛門{禎幹}と云し人と同く点を付られ、書肆・松会三四郎、刻す。三四郎は大のやましにて、二十一史を印行せんとせし由。保山侯の勢ならば、諸侯へもうれやすからんと、三四郎思立しなり。五史は晋・宋・南斉・北斉・陳。

一 前にも云てある通り、徠翁『二辨』『徴』『学庸解』は暗記にて書れしゆへ、出処へ突合せくれと、山井善六に頼まれける。「春台・南郭はいそがしヽ、金華はけんおのやうなる者なり。足下ならではたのむ人なし」と云れし由。夫より右の書ども写取り、句読などせられける。其内に帰省に紀州へ行し。発足の時より腫物にて不快にありしが、程なく在所にて物故したり。徂徠より七日後れて死せしなり。依て此方にて道具などうりて金にして在所へつかはせしとなり。善六は根本八右衛門と二人、足利学校に居て『七経孟子考文』を編し人にて、精密の学なり。

一 春台嘗て云く、「今にも善六が居たらば、餘程六ヶしき学者なり」と云れし由。

一 『石台孝経』は唐の玄宗帝墨跡にて、石本蔵版蘐園にあり。是は華本を徠翁、双鈎にとりて、東野これを彫しとかや。一年、河保寿、灊水に乞てこれを得て、一つは保寿納め、一つは子廸へつかはす。其後、鳩谷写さんとしたるとき、蘐園より取にきたり。灊水大きに困りしと、子昌咄しき。

一 「書を読て眼光紙の背に徹せざれば快からず」と徠翁云れし由、竹渓の物語にて、灊水聞かれし由。

一 南郭、三十三番の観音を画せられしに、没後、遺物として縁山の忍海へ仲英より贈りたり。忍海没後、払物に出たるを、青山百人町の蓍山と云者買て、少林院へ納めしとかや。保寿咄なり。原本は宋画の由。外より見せに来りたる内に写されし由。余も少林院にて、六月廿一日詩会の節、見たり。

一 南郭遺言にて、墓碑銘并誌等なし。因て『四編』の末に、水戸の楽山公子の文にして、仲英が大概を書けりと、灊水の咄なりきが、今の本には見へず。

一 いさ葉と云ものは、草木の病なるべし。それを好む人情おもひやるべし。松などは本色を失へりし由、南郭云れし由。

一 『訳筌』『示蒙』は分けずにとぢて、しかも『示蒙』の方、先にある由[手沢本]。『訳筌』は板刻の本同じことなり。其後殊の外増補あり、中には省略もあり。『示蒙』も其まヽの由。因て板刻の本は宋見のときのこともあり。

一 『葬礼略』は、もと徠翁、唐紙にすつと書ておかれしを、灊水の写しおいて、題号もなければ、『葬礼略』と書置れし。其後、南郭『目録』を書るヽとき、灊水かくと申されければ、「あれはあの通にて然るべし」と云しが右の名となりたる由。

一 徠翁へ南郭の云しは、「世の中よ道こそなけれと云歌は、だうも読れぬ歌なり」とて賞美せられし由。

一 南郭、公儀のことを漢文にて書しが、このことにて殊の外難儀ありしゆへ、是より一向経済もやめられ、詩文ばかり専らにせら(ママ)なり。此記録、末年焼捨んと云しを、子(士)寧の預りて、其後、窃に跡を書れしと、穀山云き。

一 春台が、徠翁書を求るごとに、新しき内に端書を致されしよし。

一 徂徠、外より来りし書翰の返事をば、一つにして一度に書れしよし。

一 徠翁「送板倉美仲文」を、美仲放蕩のとき、灊水預かられ、美仲放蕩やんで、美仲へ返されたるに、其侭うり払ひしとかや。其文、巻物に成出たるを、村田治兵衛、求之、鑑定を灊水へたのみ、書てもらひ付置しが、治兵衛も放蕩の節、売て他人の手に渡りたる由。

一 徠翁聯に、「不朽者文、万古常有仲尼。不闇者心、千歳豈無楊雄」

一 『絶句解』大本并に『古文矩』は町医・間瀬宗三書たり。

一 東涯、温厚の君子なりし故、講書は下手なり。豊宮崎の文庫にて書を講ぜしときは、数百人の聴衆あり。東涯声ふるひて講ぜられしに、却て其謹慎なることを、人称美しけるとなり。山田には東涯の門人多ありけると云伝ふ。又、宅にて講書の時は至て小音なるゆへ聞とりがたく、堀川の向にて桶屋のたがをかける物音にまぎれて、別して聞へざりしとぞ。

一 徂徠へ書肆より年玉に、貝原の『点例』を贈たり。一寸見ながらつら/\書こみ入られたり。灊水・文卿も写し置れたり。

一 春台の会に、好き了簡を言出しても、「いや/\」と二度ほど云はるれば、能き見識も出さずしてやみたるに、松崎君修は秘蔵の門人ゆへ、会後に、「先ほど誰々かく云しは、面白き」由云けるとき、いつも春台、「さうか」と合点いたされたり。人もとかく愛する所に昧さるものと憤りて、子顕常に咄したり。

一 蘭亭は雄壮の形にて、甚行儀正しく、胡坐などせしことはなき人なり。女房十人ばかり持たりと、増田知陳咄なり。

一 蘭亭の手跡を、津□(文字一部不明瞭。「田」か)意参老所持なり。「酔月」の二字にて、殊に見事なり。其後文卿に□(文字一部不明瞭。「話」か)せしに、文卿も以前にもらひて、此酔月の字を持たるが、蘭亭門人の医・何某とか云人に所望され、やりたりと咄き。

一 「唐詩典刑」は、『唐後詩』の凡例に書れたり。『唐後詩』もとは「唐詩典刑」と云。『四家雋』を「漢後文」と云たるを、後に名を改たりとぞ。

一 南郭が夏月の歌、「宵やみの梢涼しく端居して待出る間も夏の夜の月」

一 水戸の黄門公の園を「後楽園」と云。范文正公の語を以て付られしを受てや、尾州公の支封・高須侯は「共楽園」と付られたり。大学侯の園を占春園と南郭付られたる由。

一 徠翁の書は『二辨』『論語徴』『学庸解』等にて器量は見へ過る程也。小技、仮名もの等板行を、灊水が世話にするは、あまり褒ぬことなりと、士寧の云し由。

一 春台、何やら封事を上らる(れ)たることありて、穉明と君修が相封にして置たりと云を、音(穉)明に聞たれば、焼捨になり、今はあらざる由。

一 『周易反正』は、穉明、命を受て出板せんとせしが、「貞正也」の説を用られたる故、「貞」と云は尾生が女と約して溺死たると云やうなる馬鹿りちぎなることにて、「正也」の説たしかならざるゆへ、其説を書て出さんとする内、穉明死たるゆへ、今に出板なし。其説があると、恵明云ひき。

一 『中庸大学解』は、高安彦太郎世話して、野呂大蔵と云、伊勢の処士にて江戸に在しに書せたり。此板、彦太郎蔵板せ(し)て売出したるを、恵明持たり。灊水考校本出て後、廃板させられたり。

一 室鳩巣、加賀侯に受廩して後、白石を同藩へすヽめけれども、白石、望なき由にてゆかず。白石、召出されたる後、此報に鳩巣を推挙せられて、同召出されたり。白石、従五位下、筑後守に叙爵いたされしとき、文廟御前にて御太刀拝領、五位の装束も下されたり。右御太刀拝領は、万石以下には其例もなく、破格にて下され候由。其太刀、誠に家の宝なりとぞ。

一 徂徠の文集に、「奥者帝之息壌也」[ひらけぬ土地、実は不毛のこと]と云へり。「息壌」の字、甘茂伝にあれども、地名なり。『佩文韻府』などにも見へぬと、文卿云しが、恵明が詩に[歳暮の吟かの歌行なり]、「息壌」の字あり。奥の産なれば、意を知るべしと問ふに、前に付し訓のごとく答へたり。

一 『読荀子』『読韓非子』『読呂氏』などの書は、宋学の猶除かざる以前なれば、おかしな説、まヽあり。印行にするは不宜を、何も角も信ずる餘り印行せられしは誤なりと、士寧は常に子廸のことを云れたり。

一 徳廟、律の事御すきゆへ、『明律』なども叔達に仰付られ官刻あり。されども、叔達はあまりはつきとした学問にてなければ、徂徠へ律のこと御尋あるにより、『国字解』も出来たり。因て叔達は外の事より律のことはよかりし。『明律』をきかするには、約状と云ものを取られし由。其約状此に記す。
    条約
一 律者人命所繋也。君大夫有問、引文以対。慎勿以意増減而阿其旨、及恃其強記而軽忽之。
一 律者異代異国之制也。慎勿輙用之当世、以壊成憲。
一 律書、文簡義深、以難輙解。故古有法家、別為一家学。慎勿妄伝之鹵莽学者。貽害不浅。
   右所不奉訓戒者有如白日        物観
      条約入置候人名
一 服南郭 藤東野 平義質 劉世篤 岡正敏 増勝浄 葛西正対 丹玄 松貞吉 藤容 落敬 崎巌 橘遂賢 室偉文 江機 山広業 祝晴延 森公綏 田尚足 小田切尚綺 三谷逵
    以上二十有一人

一 松平能登守殿は春台の門人にて、詩文など出来し人なり。

一 筑波は徠翁に謁見なし、徠翁没後江戸へ出たり。

一 筑波はもと松平豊後守殿藩人なり。五油、赤坂へ近きゆへ放蕩して亡命したり。其後、南郭へ謁したり。游優館にて宴のとき、熊耳・士寧なども始て近付になりたり。春台は、「家を亡せし人なり」とて寄付ざりしとなり。

一 高翼之は南郭の高弟の門人なり。士寧出らるヽ前までは一人なりき。士寧出られて中悪しきゆへ、会に出ず。気篇やかましき人ゆへ、皆そしりたるに、南郭のいはれしは、「まさかのときに、をれが為に身を捨るものは翼之ひとりなり」と誉られたり。深切なる人の由。

一 京極公子は筑波の門人にて、夫より南郭士寧に属す。

一 仙(千)田玄智と云人、本、京師の生なるが、甚器量の人物にて、徠翁、心易くいたされ、大玄堂と号して、集に文あり。町医より官医になられ、五百石領せし。金華の師なり。金華未だ玄仲と云しとき、相門と将棊を指たりしを、玄智見られて大に叱り、「家業あるもの、箇様なる伎藝すべきことにあらず」と、盤を真木割にて打破しとなり。さすがの金華も一生恐れしとなり。

一 南郭の『三稿』は熊元朗[熊元白庵]の世話なり。一日、元朗の宅へ校合に、灊水・熊耳・士寧・仲英など行たり。其日は殊の外、酒が長じて大杯を求むる故、螺杯の九合五勺入るを、維公の宅より持来り、大酔の上ゆへ、誰も飲む者なかりしに、灊水ばかり一はい飲て、熊耳半分、士寧七分目程のみたるに、皆酩酊にて倒れたるを、子廸の抱□(介抱)せられたるに、士寧の介抱をも、子廸せられながら、「爾後、酒に於ては不佞に左袒せらるべし」と云しに、士寧の、「なる程伏すべし。さりながら無念なることかな」と云れし由、士寧の語気の由。

一 才子の兔や角口利てやかましきを、「野馬のやうに勝手しだいに育ちたるゆへ、教なければ上馬には成れぬ」と、鵜公云れし由、文仲よく{り}よ(き)く。此鵜公は、もと長州の附庸吉川の藩人・村尾権左衛門が子なり。兄弟三人有て、鵜公の次は紀藩の奥にて、涼月院と云御年寄なり。真淵の門人にて、古風家なり。弟は清水公の村尾権之助にて、能書なり。何れも豪傑なり。村尾権左衛門は、長州を何かのわけにて出、軍学を以て松平和泉守殿より十五人扶持貰居たり。権之丞、其跡なり。

一 『南留遍志』を、初「蘐園談餘」と云しゆへ、「周南談餘」を、南郭の、『為学初問』と題目して、校合印行せられし由。

一 筑波、本郷に住せしとき、灊水・熊耳など訪れたるに、「今日は御目にかヽるまじき」とてことはりたり。両人不審に思はれしに、四五月立て死たり。後よく/\聞けば、酒が呑れぬとて断りたるとぞ。

一 『円機活法』は叱りながらつかふものなれば、「調市」と南郭付られたる由。

一 春台の『独(特)解老子』ありしを、未定なりとて、稲穉明、外へ出さヾりしを、末期、子顕へ譲りたる由、文卿咄なり。

一 『詩書古伝』は子顕[大塩与右衛門]・君則など校合なり。『韓詩外伝』江戸摺は君修の校合なり。

一 真淵が士寧に初見せしとき、「自分の著述の書を譲るべきものなし。士寧ならば残らず譲るべきなり」と云し由、恵明云ひき。

一 井上嘉膳が会に、灊水・熊耳・文仲・孟玉などまいりしとき、熊耳は先へ辞して帰りたり。如来、取持に行たるに、殊の外、灊水・熊耳などを慇懃にあしらひ、熊耳の帰るとき、嘉膳送らぬに、如来、玄関へ送て出て後、「灊水のことを熊耳の云るヽには、酒いまだ不足なるべし、我に代りて勧められよと託せられし」由述たれば、灊水の云、「それは足下の作りごとなるべし。熊耳の語意には非ず。もし熊耳ならば、もはや子廸へは酒をのませまじき由云べきを、足下の作りごと知れたり」といはれしを、文仲、「さすがは灊水ほどある挨拶なり」と語りき。

一 如来、もと慶子の弟にて、男振よき人なりしかも、殊の外、世に阿る所ありておかしきことある人なり。自分にて冬至会のとき、灊水・文仲なども行たるとき、上下にて、次には門人共上下を着し、名札を投、先生へ知る人になる。一体魏々たるに、庭を鉄棒引て、鳶の者、皮羽織にて通るを、人々不審しければ、「今日の火の用心の為に、町人を頼みて如此なる」由申せし。「其塾を見せん」といふ。灊水など歩行のため行て見られ、態と誉て、「扨々先生の盛なるには、不佞等及び難し。箇様の事を見ては、吾等は角がはへる」と戯られし由。惣て京都の諸生とりあつかひの如く、入塾の人には断ら(を)出させ、客にてもあれば給仕につかひ、医者・出家等には茶をはこばせ、外へ会に行ば、「先生の交を見べし」など云て、若党にして連るなど、如此世智かしこき生得の人なる由、文仲の咄なり。されば尾藩にて五百石賜り布衣になりたり。今は殊の外、富家なる由。

一 千葉茂右衛門が会の時、如来、京学せし自賛などして、「よき淫薬を長崎にて伝授を受たり」と云たり。其時、松窓[関栄一郎]云、「不佞、日本の世説を書んと思立たるに、足下をば徳行篇に入れんと思ひしが、今の一言にては、惑溺に入れずばなるまい」と云れたる由。

一 大室[渋井平左衛門]、堀田侯の儒者なり。七十ばかりの時に、君修が云ふには、「人は世間で惜む内に死するがよし。先生も好時分なり」とて調戯したりとぞ。

一 君修の親も、父子共に蘭亭門人なるよし。或時、熊耳の蘭亭へ往れしとき、君修も初て知る人になり、後に、「是は私親なり」とて引合されし。後に熊耳の、「是は親が子を引合すべきに、あちこちなり。君修は俊抜の人なり」とて、気に入らざりし由。

一 人見弥右衛門云、「『経済録』はすぐれて出来たるものなり。編題の立方は、何ぞ古人の目録によられつらん」と云しを、灊水の聞れて、「それほどに目録をも立つるほどでなければ、徠門の学者とは云はれぬ」と云れき。

一 尾藩の中老・津田応卿と云は、唐画すぐれし人にて、南郭・春台なども出会はれ、画を褒められたるを、宇子廸、聞居られたるや、文卿にたのみ、人見弥右衛門まで画のことをたのみもらひにやりし由。

一 兼山は灊水の養子になりしが、熊本侯へ代講に行しとき、奥女中に女房約束せし女ありて、そのことに付て細川侯よりも出入を止られしゆへ、灊水怒りて出せり。其後、蘐園門下にては誰もつきあはざりし由。南郭一人、ふびんなりとてよせられしが、「人の肉を食したる」と咄せしより、これもよせられずとなり。

一 京都の石川平兵衛と云儒者、『辨道解蔽』と云書を著して『辨道』を排したるを、鳩谷持て来り、灊水に見せたれば、それに悉非を打て書上られしを見たりき。

一 日本へ漢土より通ぜし古は、もと呉の方より通じ始めしなり。呉はあやはなといふも、織姫の呉の方より来りしなり。既に「太伯は天照太(ママ)神じや」と云説もあるより、「于越は呉越なり」と云ふ註も、『荀子』『呂氏春秋』などにもあるなり。又、「諸越」とも云なれば、「もろこし」と云訓は、「諸越」よりいふとみへたりと、稲垣長章物語なりと、恵明云き。

一 鳴島同筑は、もと御城坊主なり。後、徠翁へ入門してとりたてられ、奥儒者になりたり。

一 文仲、詩の出来る度に、菅長卿[五大夫のこと]などヽ互に論じ争ひたるを、士寧聞れて、「足下等は常に詩の工拙を論じて、徳をうること多し。此方へは、たとへよくない詩にても、夫を云てくるヽものなし」と云しとき、文仲の云たるは、「近来の御作は、のびぬやうなり」と云たれば、士寧の云はるヽは、「さればそのことなり。若き時分は、裸で堀池へ飛込気なれば、詩も何もくもることなし。年過ぎては、底が深いか石が有うかと怪む心つよければ、飛込気になり兼る処が、乃ちのびぬところなり。詩も同じことにて、容易に出来ぬ故、調ものびかぬる」よし士寧の云しと、文仲の咄なり。

一 禅軾、四年ぶりに君修に逢たるとき、「近作ありや」と問ふに、禅軾、遅吟の人なれば、五絶を一首見せられたり。「一年に一句づヽ案じたるや」と君修、嘲りし由。

一 愿卿は[辰三郎]美童なり。烏石が竜陽君にて、旅行或は青楼などへもつれ行たり。それを南郭は、唯かはゆかるとのみ思はれたれども、もとは此訳にて、夫より養生も宜しからずと、やぶりたると見へたりと、伯玄云き。

一 牛込の伝久寺と云寺の、天門上人と云が、『品彙』の内の虚字ばかりを書ぬきて、『唐詩虚字』と云ものを作りたり。春台なども称美せられ、服子、序をかヽれたり。夫を関思恭が持たり。思恭、世話したるやうに云ひたるゆへ、春台、憤られしが、左様の訳にて印行せぬと見えたり。今、関其寧方に秘したるを、文卿かりて、大村侯に見せたれば、「其方、世話せよ」とあるよし咄き。

一 恵明が祖母とやらは、春台の娣なり。其覚へ、万人にすぐれたり。台翁と咄合のとき、年号月日何時と、互に昔物語せられし由、恵明咄。

一 君修が、「士寧に逢度」とて、文仲へ「紹介をせよ」と頼む。文仲は殊の外、士寧を信じたれば、こと/\しく承合たるに、君修云は、「士寧に何も用はなけれども、酒がつよきときヽたるゆへ、逢て見度」と云し由。

一 積翠園の徠翁の聯石刻なり。「手揮五弦壁上名山欲響 目送孤雁天外故人未過」。此の聯、赤羽にありたるを、子宥、十太をして双鈎にとらせられしが、南郭の聞れて「贈るべし」と云たるが、没後、仲英の贈し由。真蹟は雪斎が藩に有となり。

一 『聖堂類聚』の目録、子廸自筆の写。
道 中 礼 義 物 文 極 質 経 権 徳 仁 孝 友 忠 篤 厚 信 恕 恵 周 寛 裕 善 良 温 実 誠 聖 知 聡 明 敏 賢 睿 清 廉 耻 公 平 節 倹 正 直 利 貞 恭 敬 遜 譲 不伐 慎独 勇 剛 強 武 毅 果 威 命 天 帝 鬼 神 祗(祇)
元 亨 利 貞
『聖堂類聚』引書目
易 尚書 毛詩 春秋 左氏伝 公羊伝 穀梁伝 家語 孝経 論語 孟子 荀子 管子 晏子春秋
表紙うらに
交 学 信 政 礼 詩 楽 喪 道 利 父 母 智 勇 改過 富 忠 行 志 直 政 恭 士 民 徳 敬 名 義 巧言 事君 婦人 心愛 名数 明 孝 悌 君子 小人 聖王 先王 仁 朋友 予一人 師 諫
右のとをり有之。丸を付たるは出板これある分の印、此方にて付をく。

一 徠翁二十五歳の時、南総にて手親ら写す所の『唐詩訓解』二冊、鼻紙の麁末なるに写す。評語、皆徠翁なり。其序跋、こヽに写す。
『唐詩訓解』一部二冊、徂徠先生手自書者也。余嘗読『訳筌』題言曰、「在南総時、独蔵用『大学諺解』一本」。以為、窮僻之地、乏書如此乎。又以為、先生一時勧勉蒙生之言也。及閲此書、不覚敬起曰、先生精力之所用、其卓越於千古、誠不誣矣。夫唐宋以後、雕本肇起、市人日伝、万紙書目益夥、学者悆(愈)衰、何也。我東方、書籍之盛、今時為最。人好而且力、則無不獲、獲無不読。而我猶彼又何也。蓋先生所謂「在能思与不思」哉。又聞、先生少而居田間、山巌屋壁之蔵、適獲之牧豎之輩、乃手抄目讐、以当拱璧耳。中間還東都、毎獲一奇書、解衣縮食、以易之商賈。於是乎、二酋(酉)之蔵不啻也。最後撿括諸故書、少壮之所抄録与蠹噛鼠侵、悉併焚之。此書在焚之中。香谷上人在傍、請之。先生曰、「持去矣。此南総之旧物、後足見予之所以勤也」。上人伝之弟子梁公。余与梁公善。独使予閲之。素不得与先生同時而陪于下風也。而少壮真面目猶見之当年者、特梁公之賜也。此可以概先生南総時、又知東帰之奮。夫後之閲此書者、知先生之不我欺也。学之可以已哉。
明和丁亥秋九月         野本定物撰
『唐詩訓解』序
此者攀竜石公二氏之所殫思也。評隲之詳最孜々、猶時代之辨矣。頃者手写正文一通、加之評語、稍附奇解。蓋意、初唐雅艶典麗、気象超邁。盛則高華明亮、格調深遠。中則瀟洒清暢、興趣悠婉。晩則奇刻工緻、詞藻精切。故戯傚李西巌錦琴之体、題其後曰、修竹茅斎過雨涼、垂帷棐几対秋光、芙蓉出水照初日、蘭菊着霜揺暁芳、隔澗清猿伴明月、映門紅葉帯斜陽、西風惆悵古人遠、一擲禿毫一断腸
 元禄庚午孟秋之日       荻徂徠書
  『唐詩訓解』全部物茂卿手書。明和五年戊子、男・道済閲。
   物子既称禄隠、其居尚近市喧也。遂移牛門、因値新正作此。
藩中今日定何如、蓬髪急梳驚歳除、符換先生閉戸後、柏浮弟子問奇餘、唯歌白雪供高枕、寧惜青春照曵裾、自為王猷多種竹、牛門似是馬曹居。
                物茂卿
 右は加川子慶の所蔵なり。子慶云、大梁没後、此奇物を換貨、余直一片を贈て取之と云。

蘐園門下人名
藤忠統 [姓藤原、字大乾、号猗蘭、一号南山、一号西台、一号郁文、俗称本多伊豫守]
丹治直道 [号琴鶴、俗称黒田豊前守]
源頼寛 [姓源、字子孟、俗称松平大学頭]
越正珪 [姓越智、字君瑞、号雲夢、俗称曲直瀬養安院。東都医官]
菅正朝 [後更弘嗣、姓菅原、字大佐、号麟嶼、俗称山田大助。幼聡敏、年十三、徳廟以茂異召見、特賜禄二百石。二十四卒]
島鳳卿 [姓鳴島、字帰徳、俗称道筑。東都秘書監]
板安世 [字美仲、号璜渓、或号帆丘、俗称板倉安右衛門]
武敬 [姓源、字文安、号広陵、俗称武田長春院。東都医官]
木実聞 [字公達、号蘭皐、俗称木下宇右衛門。尾州公大夫]
藤煥図 [字東壁、号東野、俗称安藤仁右衛門。年三十八没]
服元喬 [字子遷、号南郭、俗称服部幸八。後更小右衛門]
太宰純 [字徳夫、号春台、又号紫芝園、俗称太宰弥右衛門]
平義質 [字子彬、号竹渓、俗称三浦平大夫。初仕柳沢侯、後致仕而去。吉田侯為亜大夫、以従遊徠翁。故自比李白客任城、与孔巣父輩居徂徠山、号竹渓。精明律]
県孝孺 [字次公、号周南、俗称山県少助。長州毛利侯文学]
平玄仲 [字子和、号金華。早孤、及冠、族人謀令学医東都数年、非其所志、更為儒。俗称平野源右衛門]
石之清 [字叔潭、号大凡、又号黙斎、俗称石川重次郎]
根遜志 [字伯修、号武夷、俗称根本善右衛門]
岡孝先 [字仲錫、号嵰州、俗称岡井郡大夫。巑岐侯文学]
山鼎 [字君彜、号崑崙、俗称山井善六]
鷹正長 [字子方、号爽鳩、俗称鷹見三郎兵衛。田原侯大夫]
佐久間義和 [字子巌、号洞岩。仙台侯世臣。善画]
吉有鄰 [字臣哉、号孤山、俗称吉田作兵衛。森川生実侯大夫。善御家様書。徠翁常毎有和流書筆之事、令臣哉書之]
藪弘篤 [字震庵、以字行、俗称藪久右衛門。熊本侯世臣]
墨昭猷 [字君徽、号滄浪、俗称墨江万之丞。熊本侯衛士]
水足業元 [号屏山、俗称平之進、後改半助。熊本侯文学]
水足安方 [字斯立、号博泉。屏山子。俗称平之允]
源儀治 [字京国、号華岳、俗称九津見吉右衛門。参州人。苅谷侯世臣]
宇鑒 [字士朗]
松崎堯臣 [字子允、亀山侯世臣]
高野維馨 [字子式、号蘭亭、号東里]
三子雄 [字仲英、姓西村氏。南郭義子]
秋以正 [字子帥、号淡園、俗称秋元喜内。岡崎侯文学]
宇恵 [字子廸、号灊水、俗称宇佐美恵助。雲州侯文学]
晁文淵 [字涵徳、号玄洲、俗称朝比奈甚右衛門。尾州公世臣]
土伯曄 [号藍州。以母命学徠翁。後有故為医、仕小倉侯]
田良暢 [字子舒、号蘭陵。武州人]
滕元啓 [字維廸、号南昌、俗称伊藤一臈]
釈元皓 [字大潮。肥州松浦人]
釈道費 [字無隠、号雑華室。加賀人]
釈原資 [字万庵、号芙蓉、東都高輪住東禅寺]
釈了玄 [名円乗、号天門](釈元皓の上に頭書)
釈大黙 [名慧寂、号曇華](釈道費の上に頭書)
  右四十一人、記高第大凡。

一 徠翁が寄松祝の歌二首、「かぎりなきよはひとぞしる松枝の一葉/\にこもる千年は」「かぐろはぬ国はあらじないく千世もときはにしげる松の木陰に」
 右一則、拠幸田氏所蔵本、追加之。

一 徠翁が嘗て曰はれしに、「公が木の下に居ましますれば、風あたりをはらう」のなぞを曰へり。(底本一葉前の端に「松」の一字あり。このなぞの答か。)