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住吉先生
来源:河南師範大学外国語学院教授 劉徳潤 发表时间:2010-09-27 浏览:4669

住吉先生

河南師範大学外国語学院教授 劉徳潤

 

住吉里子先生(1926-1989)は私の恩師である。 先生は日本語の発音から三年間教えてくださった。宿世の因縁だろうか。29歳の時、私は、河南省新郷市栄康病院の住吉先生と知り合った。栄康病院とは、軍隊から復員した身体障害者の兵士の専門病院である。この偶然の出会いのおかげで、私の人生はすっかり変わった。住吉先生は山梨県甲府市生まれで、貧しい農家の娘であった。国民学校の高等科卒業して、地元の落下傘工場に就職した。

1942年、満蒙開拓民として、故郷を離れ、朝鮮半島経由して中国黒竜江省の報国農場に来させられた。

1945年8月15日、日本は敗戦を迎えた。満州国は消滅し、関東軍はまさに孤軍となった。ソ連軍に降伏した関東軍兵士には日本への帰国は許されず、シベリア等の極寒の地に抑留され、過酷な労働に従事することになる。しかし、それ以上に悲劇的なのは日本の民間人で、特にソ連・満州国境近くに住んでいた満蒙開拓団の人達は関東軍に置き去り同然にされたのである。敗戦後の東北地方の大混乱の中で、開拓団の人達は避難する途中で多くの人が前途を悲観して自決し、病気と極寒で倒れた同伴を埋葬しようとしても、凍土の地代は、お墓を掘ることさえ不可能だった。野良犬、狼に同伴の遺体を食べられてしまうのを見るしかできない。あるいはソ連兵、匪賊に虐殺された…… 住吉先生は、九死に一生を得て、長春で共産党系の林彪が指揮した第四野戦軍に入隊した。入隊の動機は、生きていくためだけでなく、第四野戦軍には、100名ほどの日本人医者、看護婦から編成された医療班があるのである。解放戦争(共産党軍と国民党軍の内戦)の時代、住吉先生は軍隊と一緒に南下して湖南省の長沙に駐屯していた。先生はさっそく日本へ帰りたがっていたが、帰郷の夢はなかなか叶えなかった。日本の家族とも音信不通だった。すでに30代になった先生は、河南省出身の中国人兵士(中隊長)と結婚した。やがて、夫婦共に軍隊から復員して新郷の栄康病院に就職した。その後、ご主人に死なれて住吉先生は二人の子供を女の細腕一本で育てている。給料は47元ほど、当時の為替レートで日本円6千円に過ぎない。さいわい、中国の物価は安い。親子3人でかろうじて貧しい生活を送っていた。

1974年、山梨県庁の配慮と先生の肉親の努力で、住吉先生は、32年ぶりに娘の住吉琴を連れて一時帰国した。「私は浦島太郎です」と帰郷の実感を語った。先生は兄弟から、両親のことを聞いた。 終戦直後、お母さんは毎日甲府駅へ里子を迎えに行っていた。お母さんは涙ぐんで朝から夕暮れまで、大勢の引揚者と肉親の無数の再会の場面を見ていた。しかし、里子の姿はずっとなかった。夜、プラットホームと駅前は静まり返った。お母さんはくたびれて駅を離れ、「里子は必ず無事に帰ってくる」と呟きながら帰宅していった。翌朝、お母さんはまた駅に出る。中国から近所の人々は生還者でも遺骨でも一人一人帰ってきたが、一日また一日、里子は帰ってこなかった。 数年後、ご両親は里子のことを心配しながら他界した。

今、住吉先生は、娘を連れて先祖代々のお墓参りをして、自分の中国での人生と家族のことを報告した。息子の住吉武がまだ中国に残っているので、先生はふたたび新郷の家に戻った。

文化大革命の初期、日本人の住吉先生は例外なく、迫害を受けていた。その後、私は住吉先生に日本語を習い始めた。初対面の時、先生は「私は日本人です。怖くないですか。」と聞いて下さった。「怖くありません」と私は答えた。日本語を身につける。絶対中途半端ではなく、先生のご希望にそむかないと私は決心をした。 私は、週に三回、鈴懸の径を先生のお宅へ通っていた。 当時の文化大革命の政治スローガンばかりの日本語テキストを先生の前で暗誦し、発音の訂正をいていただき、作文の添削もしていただく…… 「これは本当の日本語ではありまえん。」と言って、先生はご家族からの手紙を出して、生の日本語の教科書として教えてくださる。 私は喜んで、先生のご家族の手紙をノートに丁寧に写して、生の日本語のテキストとして勉強していた。住吉先生は和歌も教えてくださった。 太田道灌の逸話を話してくださった。

七重八重花は咲けども 山吹の 実の一つだに、なきぞあやしき             

――兼明親王『後拾遺和歌集』

ある日、太田道灌は狩に出た時、雨に降られて、農家へ蓑を借りようとした際、
農家の娘が八重山吹の枝を持ってこの歌を詠んだ。太田道灌はこの歌の意味が分からず、恥ずかしく思って、身を翻し、馬に乗って雨の中に姿を隠した。その後、一生懸命に歌道の勉強に励んだという。

 洗濯機、テレビ、ガスなどが無い不便の時代、先生の家事を手伝いながら会話の練習をしていた。その文革の時代は、金銭は資本主義のシンボルとしてひどく批判されていた。 月謝という概念はなかった。

大和撫子の住吉先生、母親のように親切にかわいがってくださった住吉先生。今、先生はすでに亡くなられた。先生のご恩はどうして返すべきであろうか。

1978年、河南師範大学は日本語科を新設することになった。住吉先生のご推薦で、私は河南師範大学の教師になった。1979年の早春、住吉先生はついに、二人の子供を連れて永住帰国した。 その後、先生は、子供時代から中国の古典詩歌が好きな私に、『万葉集』『古今集』『新古今集』『百人一首』などの文庫本を送ってくださった。1985年、私は大平学校の学生の一員として初めて日本を訪問した。 住吉先生と息子の武は、わざわざ車を飛ばして甲府から箱根へ私と会いに来た。

1978年,河南师范大学准备开设日语专业。住吉先生推荐我到河南师范大学当上了日语教师。1979年早春,住吉先生带着两个孩子回日本定居。自幼喜爱中国古典诗歌后来,先生给我寄来了《万叶集》《古今集》《新古今集》《小仓百人一首》等文库本书籍。1985年,我作为大平学校的一名学员首次访问了日本。住吉先生和儿子住吉武特意驱车从甲府赶到箱根与我见面。

 1989年の春、住吉先生は波乱万丈の数奇な人生を終えて故郷の富士山の麓の甲府市で病気で永眠した。先生のご冥福を祈ってやまない。

 以上は、私の1990年の作文の一つである。不自然な表現がいっぱいあるが、出来るだけそのまま保存していきたいと思う。2007年、拙作の『小倉百人一首』は26年の努力で、やっと北京の外国語教育と研究出版社によって出版された。日本文学、日本文化をできるだけ多くの中国の人々に紹介することは私の使命だと思う。これこそ住吉先生への一番いい恩返しである。

2008年4月、私ははじめて山梨県を訪ねた。東京からバスで山梨県へ行く途中、甲州の山々を見ながら、17歳の住吉先生は柳行李を背負って同郷の人々と、故郷を離れて東京へ向かっている隊列を、私は思わず錯覚で見たような気がした。