魯迅
井上紅梅訳
一
「お父さん、これから行って下さるんだね」
と年寄った女の声がした。そのとき裏の小部屋の中で
「うむ」
老栓は応えて
「お前、あれをお出しな」
「
「…………」
老栓は
街なかは黒く沈まり返って何一つない。ただ一条の
老栓はひたすら歩みを続けているうちにたちまち物に驚かされた。そこは一条の
「ふん、親爺」
「元気だね……」
老栓は

まもなく幾人か兵隊が来た。向うの方にいる時から、著物の前と後ろに白い円い物が見えた。遠くでもハッキリ見えたが、近寄って来ると、その白い円いものは
老栓は注意して見ると、一群の人は鴨の群れのように、あとから、あとから
「さあ、銭と品物の引換えだ」
身体じゅう真黒な人が老栓の前に突立って、その二つの眼玉から
その人は老栓の方に大きな手をひろげ、片ッぽの手に赤い
老栓は慌てて銀貨を突き出しガタガタ顫えていると、その人はじれったがって
「なぜ受取らんか、こわいことがあるもんか」
と怒鳴った。
老栓はなおも
「この
と口の中でぼやきながら立去った。
「お前さん、それで誰の病気をなおすんだね」
と老栓は誰かにきかれたようであったが、返辞もしなかった。彼の精神は、今はただ一つの

二
老栓は歩いて
「取れましたか」
ときいた。
「取れたよ」
と老栓は答えた。
二人は一緒に竈の下へ行って何か相談したが、まもなく華大媽は外へ出て一枚の蓮の葉を持ってかえり
飯を済まして小栓は立上ると華大媽は慌てて声を掛け
「小栓や、お前はそこに
と

「いい匂いだね。お前達は何を食べているんだえ。朝ッぱらから」
「炒り米のお粥かね」
と訊き返してみたが、それでも返辞がない。
老栓はいそいそ出て来て、彼にお茶を出した。
「小栓、こっちへおいで」
と華大媽は倅を
「さあお食べ――これを食べると病気がなおるよ」
この黒い物を撮み上げた小栓はしばらく眺めている
「横になって休んで御覧。――そうすれば好くなります」
小栓は母親の言葉に従って咳嗽
華大媽は彼の咳嗽の静まるのを待って、ツギハギの夜具をそのうえに掛けた。
三
店の中には大勢の客が坐っていた。老栓は忙しそうに

「老栓、きょうはサッパリ元気がないね。病気なのかえ」
と胡麻塩ひげの男がきいた。
「いいえ」
「いいえ? そうだろう。にこにこしているからな。いつもとは違う」
胡麻塩ひげは自分で自分の言葉を取消した。
「老栓は急がしいのだよ。倅のためにね……」
駝背の五少爺がもっと何か言おうとした時、顔じゅう
「食べたかね。好くなったかね。老栓、お前は運気がいい」
老栓は片ッ方の手を薬鑵に掛け、片ッぽの手を
「あの
と瘤の男は大きな声を出した。
「本当にねえ、
華大媽はしんから嬉しそうにお礼を述べた。
「いい
華大媽は「癆症」といわれて少し顔色を変え、いくらか不快であるらしかったが、すぐにまた笑い出した。そうとは知らず康おじさんは
「お前の
と胡麻塩ひげは言った。彼は康おじさんの前に言って小声になって訊いた。
「康おじさん、きょう死刑になった人は
「誰って、きまってまさ。


康おじさんはみんなが
「あの小わッぱめ。命が惜しくねえのだ。命が惜しくねえのはどうでもいいが、
小栓はしずしずと小部屋の中から歩き出し、両手を以て胸を
華大媽はそばへ来てこっそり訊ねた。
「小栓、少しは楽になったかえ。やッぱりお
「いい
と康おじさんは小栓をちらりと見て、
「夏三爺はすばしッこいね。もし前に訴え出がなければ今頃はどんな風になるのだろう。一家一門は皆殺されているぜ。お金!――あの小わッぱめ。本当に大それた奴だ。牢に入れられても監守に向ってやっぱり
「おやおや、そんなことまでもしたのかね」
後ろの方の座席にいた
「まあ聴きなさい。赤眼の阿義が訊問にゆくとね。あいつはいい気になって釣り込もうとしやがる。あいつの話では、この
「
壁際の駝背がハシャギ出した。
「ところがあの馬の骨め、打たれても平気で、
「あんな奴を打ったって、
胡麻塩ひげは言った。
康おじさんは彼の
「お前さんは
聴いていた人の眼付はたちまちにぶって来た。小栓はその時、飯を済まして汗みずくになり、頭の上からポッポッと湯気を立てた。
「阿義が
胡麻塩ひげは
「気が狂ったんだ」
と、
店の中の客は景気づいて
「いい
「
と駝背の五少爺も
四
今年の
夜が明けるとまもなく華大媽は右側の新しい墓の前へ来て、四つの皿盛と一碗の飯を並べ、しばらくそこに泣いていたが、やがて銀紙を焚いてしまうと地べたに坐り込み、何か待つような様子で、待つと言っても自分が説明が出来ないのでぼんやりしていると、そよ風が彼女の遅れ毛を吹き散らし、去年にまさる多くの
その墓と小栓の墓は


「


老女はうなずいたが、眼はやッぱり上ずっていた。そうしてぶつぶつ何か言った。
「あれ御覧なさい。これはどういうわけでしょうかね」
華大媽は老女のゆびさした方に眼を向けて前の墓を見ると、墓の草はまだ生え揃わないで黄いろい土がところ禿げしてはなはだ醜いものであるが、もう一度、上の方を見ると思わず
二人とも、もういい年配で眼はちらついているが、この紅白の花だけはかえってなかなかハッキリ見えた。花はそんなにも多くもなくまた活気もないが、丸々と一つの輪をなして、いかにも綺麗にキチンとしている。華大媽は彼女の倅の墓と他人の墓をせわしなく見較べて、倅の方には青白い小花がポツポツ咲いていたので、心の中では何か物足りなく感じたが、そのわけを突き止めたくはなかった。すると老女は二足三足、前へ進んで仔細に眼をとおして
「これは根が無いから、ここで咲いたものではありません――こんなところへ誰がきましょうか? 子供は遊びに来ることが出来ません。親戚も本家も来るはずはありません――これはまた、何としたことでしょうか」
老女はしばらく考えていたが、たちまち涙を流して大声上げて言った。
「
老女はあたりを見廻すと、一羽の
「わたしは承知しております。――瑜ちゃんや、
そよ風はもう
だいぶ時間がたった。お墓参りの人がだんだん増して来た。老人も子供も
華大媽は何か知らん、重荷を卸したようになって歩き出そうとした。そうして老女に勧めて
「わたしどもはもう帰りましょうよ」
老女は溜息
「これはまた、何としたことでしょうか」
口の中でつぶやいた。二人は歩いて二三十歩も行かぬうちにたちまち後ろの方で
「かあ」
と
二人はぞっとして振返って見ると、鴉は二つの
(一九一九年四月)